意思決定・アクション選択の仕組み

取るべきアクションを決定する時はどうか。意識的に、シミュレーション結果を比較評価し、どのアクションにするか決定しているようにも思える。しかしながら、よくよく考えると、どのアクションが望ましいか、決定を評価するための基準は、意識的に設定できていない。

これは、選択肢の評価の仕方をきちんと規定して、評価結果を書き出し比較した上で決定する場合でも、実は変わらない。結論を妥当なものとして採用するかどうかは、最終的には《違和感があるかどうか》に帰着する。違和感が無ければ(あるいは許容できる程度であれば)採用。違和感が許容できないレベルの場合は、判断を保留したり、ゼロベースで問題設定自体を見直す、あるいは直感やあみだくじに頼るなどが選択肢になるが、どれを採用するかは、やはり違和感次第。ただ、その時の違和感は、自分で意識的にコントロールできない。

違和感は、その人の人生で編み込まれた記憶に付帯する快不快情報と連動している。

例えば、「横断歩道は信号が青の時のみ渡る」というルールを編み込まれた人は、全く車が見当たらない状況でも、赤の時には渡らない、渡ることを促されても渡らない。

他人が赤の時に渡っているのを見ると不快(違和感あり)で注意せずにはいられない。

一方、「信号の色が何であろうと、車が来るかどうかで判断するのが合理的」と編み込まれた人は、車が来ないのに、赤なので渡らない人を見ると、強い違和感に襲われる。

意思決定基準の意識的な変更可能性

それまでの人生で編み込まれた快不快情報・違和感の感じ方は、現時点で変更することはできない。これからの活動の中で、新たに編み込みが行われることで更新されて行く。

ところで、快不快情報・違和感の感じ方は、自ら意識的に変更して行くことは可能だろうか? もし、可能でないとすると、意識的に意思決定・アクション選択の基準(=違和感)を変更することはできず、成り行きに任せるしかないことになる。

例えば、たまたま引き締まった身体と自分の姿のギャップに愕然とし、美味しいものを好きなだけ食べるのではなく、糖質を少し控え、トレーニングに取り組み、脂肪を落とし筋肉をつけることにしよう、と思う場合。それまでは、好きなだけ食べるという快の優先度が高かったが、これからは、引き締まった身体にすることの快の方を優先して行こう、としている。

これでわかるのは、自ら意識的に意思決定・アクション選択の基準を変更しようとする時は、既に基準の変更がある程度なされているということ。

この例で言えば、引き締まった身体を見て愕然とした時点で、基準がある程度変更されている。つまり、基準の変更のきっかけは、偶然に起こるもので、意識的に変更を起動することはできない。

一旦、基準の変更が意識されても、基準の変更が完遂するとは限らない。三日坊主で、やっぱり美味しいものを腹一杯食べるのが良い、と基準が元に戻る可能性はある。

では、完遂するかしないかは自らの意思次第か?