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第二章 救世主

「子供っていうものは、自分でやってみてコブをつくって、自分の身体で危険なことを覚えていくものなのよ。哲ちゃんは、僕は運動神経がないからって、やりもしないで怖がっているように見える。男の子なんだから、何でもトライしてみなくちゃ、いろいろ損しちゃうわよ」

初めのうちはそんな叔母の言葉を懐疑的に聞いていたけれど、実際それは真実なのだと今は思う。

スキーの翌月は初めてスケートに連れて行ってくれた。初めは何度もバランスを取れずに転んだ。氷の上は雪と違ってとても固く、骨にズキンと響いた。でも人間の骨盤は折れることもヒビが入ることもなく、そんなにヤワなものじゃなかった。

いったんコツをつかんだ後は、風を切りながら氷上を滑るときの爽快感で転んだ痛みなどたちどころに吹っ飛んでしまい、まさに未知のことに挑戦する楽しさを身体で覚えたのである。

味をしめた私は、その後も毎月のようにスケボーやフィールドアスレチックなど、それまで母から禁止されていたいろいろなスポーツに挑戦し、時にコブを作りながらも、どんどんスポーツ好きな少年へと変わっていった。

いつの間にか、幼稚園のときあれほど怖かったソフトボールも得意競技となった。運動神経がなかったわけでもない。ただ、臆病なだけだったのだ。

そうなると逆に、母と過ごす三週間が鬱陶しくなる。

平日は将来の医者を目指して、週三回の塾通いに加えて、連日食後はダイニングテーブルの母が向かいに座ったところで、学校の予習復習をたっぷり二時間はさせられた。

その上、楽しいはずの週末も母が連れて行ってくれるところといえば、美術館とか博物館とか、医者には豊かな教養が必要なのかわからなかったが、とにかくお堅いところばかり。僕は運動がしたいんだ。こんな生活はゴメンだ! と心の中で叫びながらも、ひたすら次の叔母との一週間を心の支えに、幼稚園時代の受験生活とさほど変わらぬ自由のない勉強漬けの生活に耐え続けたものである。

そんな生活が終わりを告げたのは、小学五年の九月のことだ。