僕の中に、京都の秋の情感を感じさせてくれる風景がある。

それは、大学時代に遡る。午後の講義が終わりキャンパスを出る。日に日に早くなっていく秋の夕暮れ。夕闇が濃くなった一条通をアパートに向かう。

当時、一条通は街灯が少なく暗かった。足元が不案内のため、盛大に犬の糞を踏み、滑って転びそうになる。「チッ」と舌打ちをし、不始末な飼い主に悪態をつきながら、靴に付着した糞をアスファルトでこすり落としながら歩く。はたから見れば、甚だ不自然な歩きになることがあった。

そんな、一条通は、平安時代には一条大路と呼ばれた平安京北端の通りである。当時は、道幅が三十mと堂々とした通りであったが、現代では一方通行の狭い通りとなっている。

アパートに向かう道すがら、通りの両側の町屋の格子窓に明かりが灯ってくる。サンマを焼く煙が薄く道に漂う。格子の隙間から夕餉ゆうげの支度をする人のシルエットが見える。家々からは、夕餉の匂いが外に流れる。どの匂いも美味しそうで、家庭の温かみが伝わってくる。これから、暗い部屋に帰って、自分で作って食べる簡素な夕食のことを考えると侘びしい気持がこみ上げる。カレーの匂いが漂う家の玄関に、外で遊んでいた兄弟が我先にと駆け込んでいく。鳥がねぐらに帰るように。

そんな景色を見て歩いていると、秋のひんやりした夕風が、巧みに心の隙間に侵入してくる。

そして、僕に「秋は死期が迫っている。もうすぐ冬が生まれる」と囁く。すると、物悲しくて、物寂しいような気持ちになる。でも、そんな気持になるのは嫌いじゃなかった。

京都の街が夕闇に覆われてきている。街の明かりが灯りだした。秋の京都の情感を楽しむには、この時間帯がベストなのだ。清少納言だって、「秋は夕暮れ」と言っているじゃないか。

だが、今さら時間帯を間違えたとは女房には言えない。次は、夕暮れ時に女房と一条通をそぞろ歩きますか。犬の糞を踏まないように気を付けて。

横を見るとベンチで女房が、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。中国人観光客の濁流に飲み込まれている夢を見ているのだろうか。
 

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『サラリーマン漫遊記 センチメートル・ジャーニー』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。