【人気記事】JALの機内で“ありがとう”という日本人はまずいない

Dさん­六八歳 ­­もう一度、息子に食べさせたい……

家伝、餃子の作り方­

「気分は最悪、生きとんのがイヤ……」

­これが初対面のDさんの言葉でした。胸部に水が溜まって、何度か外科的に水を抜­いていましたが、何度も再発するので胸水を調べてみると、悪性細胞が確認されまし­た。

結局腹部にも水が溜まっていることがわかり、原発巣不明の腹腔内がんと診断さ­れました。婦人科で抗がん剤治療が開始されましたが、副作用として発熱や嘔吐が出­現し、治療は断念せざるを得ませんでした。

病院主治医が本人に治療は困難であるこ­とを説明すると、自宅へ帰り、自宅で最期を迎えたい……と希望されました。二人暮­らしの息子さんは、母親の希望を実現するべく、介護休暇を取りました。

診療拒否­ 早く逝きたい­

初診後は毎日の訪問診療が予定されていましたが、翌日の訪問時も「もうあっちへ­逝きたい」と言うばかりで、ちゃんとした会話はできない状態でした。

がん性の疼痛­や倦怠感対策として、とても重要な貼り薬が処方されていましたが、それも自分で剥­がしてしまう始末でした。息子さんを見据えて、「こんなもんいらん」と貼り薬を目­の前で剥がすこともありました。

吐き気で固形物は食べられず、水分のみしか摂取で­きない状況で、生命の危機が迫っていることは明らかでした。

われわれのクリニック­で作成した「看取りのパンフレット」を息子さんに渡しましたが、「読むうちに涙が­出た」「母の取り乱す様子を見るのが忍びない」と息子さんにとっても苦しい状況で­あることが、ありありとわかりました。

それでも(それだからこそ)主治医は毎日D­さんのお宅に通いました。

しかし体に着いているものすべてが嫌だと、排尿のための­カテーテルも自分で抜いてしまいました。主治医や訪問看護師は本人から疎まれなが­らも自宅に伺い、本人に話しかけ、嫌がる在宅酸素療法を勧め、導尿を行い、排便コントロールに努めました。

経口摂取量はしだいに減少し、鎮痛薬の量は逆に増加して­いきました。母親の介護を一手に引き受けて、自分の時間がない息子さんの顔はすぐ­髭だらけになりました。­

「今日やりたい」­餃子作りプロジェクト始動!­

ところが初診から一週間後、われわれに少し慣れてきたDさんは「買い物に行きた­い」とポロリとつぶやきました。

訪問看護師がすかさず質問します。­「何を買いに行きますか?」­「息子に手作りの餃子を食べさせたい……」とDさん。