第二章 抱きしめたい

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学年上位の五チームの選手達が準備体操をして待っていた。プールの五レーンを、じゃんけんで選んで決める。プールサイドには、五チームに入れなかったクラスの生徒も応援に来て後ろの方は、二重にも三重にもなって観戦していた。

華岡も、当然、応援に来てくれているはずだ。鉄平が大会に出場することは、一週間ほど前から廊下の掲示板に、出場クラスの選手の名前が貼り出されていた。

僕達のクラスは、三レーンを選ぶことが出来た。隣の四レーンは、アンカーに水泳部員のいる優勝候補だ。鉄平も、同じアンカーだが化学部なのだ。スタート前の準備の笛が吹かれた。

それぞれのクラスの応援団から、歓声が上がった。女子も黄色い大きな声で応援をしてくれた。

選手達は、はやる気持ちを抑え、胸に水をかけてスタートを今かと待った。鉄平は大空を見上げた。気持ちが昂った。一瞬真っ白な夏の雲と一体となれた。足の裏から、水泳教室のプールの感触が蘇り闘志が湧いてきた。

スタートの合図で、一人目が勢いよく飛び込んだ。水しぶきが、舞い上がり夏の熱気と融合して、皆の気持ちを昂ぶらせた。達のチームは、三人目まで二位でアンカーの鉄平を迎えた。トップとの差は二メートル位だった。

やはり、優勝は四レーンのクラスだと応接席からは、早くも溜息と落胆の空気が露骨に感じられた。鉄平も追いつくのはほとんど無理だと思った。

隣のアンカーの選手が、余裕の表情でちらっと鉄平を見て飛び込んだ。鉄平は、焦っていたが意外と冷静に声援の声は聞こえた。

「滝沢君頑張って」

絶対に聞き間違えない声が、プールサイドから聞こえた。

「滝沢君頑張ってね」

別の方向からも女子の大きな声が聞こえた。誰だろう? 同じクラスの山岸さんだろうか。

鉄平はタッチをして飛び込んだ。水中で四レーンの選手の足の先が見えた。水を蹴って出来る泡が、まるでソーダ水の様に綺麗だった。

鉄平は意を決して、二十五メートルのターンまで一回も息継ぎをしないで、必死に追いかけた。これが正式な競技であれば、監督やコーチにきっと注意を受けていたと思う。でも先頭との差は一メートル位まで詰まった、二十五メートルのターンで息継ぎをした時、何かすごい大きな声援が、プールサイド全体に響いた。

体育の先生が、ハンドマイクで何か叫んでいた。

「滝沢、頑張れ、頑張れ」

結果は。前半の無茶が響き、そのままゴールして終わった。この奇襲作戦は、中学生の観客には大変受けた。プールサイドに上がった鉄平に、他のクラスの生徒達からも大きな拍手があった。

学生時代に、スポーツでこれだけ皆に拍手をしてもらうのは、これが最初で最後だった。

着替えをして教室に戻った。隣の席の山岸が、興奮気味に声を掛けてくれた。

「滝沢君。疲れたでしょう」

「応援ありがとう」

少し恥ずかしかった。自分の家に帰ったみたいな雰囲気だ。

「惜しかったね、本当にもう少しだったのにね」

山岸は僕の顔を見ないで机の上の筆箱の鉛筆を両手で綺麗に並べながら言った。

「でも、優勝したチームには水泳部が参加していたのだから……ぜったい勝てないよ」

鉄平は、ぶっきらぼうに言った。

「でも滝沢君、かっこ良かったよ。本当にお疲れ様でした」

「有難う……」

好意を持っている二人の男女の会話みたいだった。初めての経験で胸がくすぐったく感じた。 これをきっかけに山岸と打ち解けて親しく話をする様になった。

山岸の両親は、学校の先生をしている。兄妹は、弟が一人だと話してくれた。二人は、こんな会話をするほど仲良くなった。そんなこともあり、ある日の昼休みに音楽の話で盛り上がった。

「滝沢君、音楽は何を聴いているの? 私はモーツァルトの音楽が一番好きだけど」

「僕は、一度も聴いたことがない。好きな音楽はビートルズだけ」

「私も、ビートルズは一度も聴いたことがないです。名前位は知っていますが」

二人で顔を見合わせて笑った。話が噛みあわない。お互い少し違う感性を持っているようだ。彼女が、笑うと可愛いえくぼが鉄平の心を無防備にさせた。

「そうだわ」と言って山岸は鉄平の顔を見ながら、もうすぐ始まる夏休みになったらと誘ってくれた。

「私の家に音楽を聞きに来ない」

「うん、でも家に本当に行ってもいいの?」

「ちゃんと、お母さんに話しておくから」

「うん、わかった」

 何か胸がどきどきした。

「家の場所は知らないけど」

「地図を描いて渡しますから必ず来てね」

「うん、必ず行くよ」

彼女の、優しい言葉に引き込まれた。そして行く日と時間を決めた。

メモの最後のページを破って地図を書いて渡してくれた。鉄平は、メモを素早く鞄の中にしまった。きっと、華岡に対しての裏切りの気持ちがあったのだ。でも何故かそれ以上に嬉しかった。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『爽快隔世遺伝』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。