飯を食べ終わると、漁師は言った。

「おみゃさん、どこから来たが。天気が良くなれば、舟で送ってやるがぁ」

矢矧の川に戻るつもりはない。この一家は温かいが、ぐずぐずしていれば、やはり弥七のことだ、何かが鼻について嫌がられだすに違いない。人の好意は、弥七の居心地を悪くするものであった。

「このあたりで一番大きな津はどこだ?」

「鳥羽の泊だが」

どこまでも親切な漁師は、翌日には、打って変わってからりと晴れた海を、西にわずか四里ほどの鳥羽の港まで、小さな莚帆のついた彼の漁舟で送ってくれたのだった。

千代姫が、吉田領の東に境を接する、河後森の若殿に嫁いで、数年が経ったある日。

夜更けに、吉田館の門を激しく叩く者があった。

眠気の吹き飛んだ当直の兵が、矢倉から見下ろすと、血まみれの刀を持った侍が何人も、門の前にたむろして居る。

「おどれら、何者か」と問うと、男たちの後ろから、白い内着姿の女が現れ、「千代ぞな。お父様を呼んでつかあさい」と声を上げた。

松明をかざして見おろすと、輿入れ前よりも少しふっくらしたようだが、確かに千代姫である。

慌てて知らせに走る。

驚いて出迎えた悠堂に挨拶をしたのは、血で汚れた着物を着た河後森の若様、渡辺四郎光忠その人であった。渡辺家は先々代を主家の西園寺家から養子に迎えており、公家の血を引くだけあって、四郎も色白で優しい顔立ちだが、体つきは逞しい。千代とは、物心がつくかつかないかの頃からの許婚であったが、幸運なことに、嫁いでみれば相思相愛、戦国の世には珍しく相敬如賓(互いに敬うこと賓客の如し)の仲睦まじい夫婦と聞いていた。いったい何事が起きたのだろうか。

「家老の板屋弾正に、謀反を起こされました。面目ない」四郎が吐き出すように言った。数人の供の者と、文字通り血路を斬り開いて逃れて来たのだった。

「お父上はどうなされたぞな。佳代姫は?」と悠堂が問うと、千代が泣き出した。佳代姫は、一年ほど前に、四郎と千代の間に生まれた娘である。四郎が「城の居館に火を掛けられました。我々の他、逃れた者は、まずおりますまい」と俯いた。

悠堂は、二人と供の者たちを館に入れると共に、主家である西園寺家の本拠地、黒瀬城に早馬を出した。

西園寺本家や、その傘下の近隣領主と共に軍勢を出し、河後森城を奪回するつもりである。

ところが西園寺家は、翌日になって早馬を返し、なんと黙認するように伝えてきた。弾正は、土佐一円を支配する一条家に臣従したと言うのである。

西園寺家には、一条家と本格的に事を構える準備はできていないのだろう。だが、西園寺家の当主にとって、殺された四郎の父は従弟にあたる。このような気弱な対応で、伊予に押し寄せてきた戦国時代の荒波を乗り切れるのであろうか。悠堂は不安に思った。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『東方今昔奇譚』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。