①冬至である十二月二十二日頃、太陽の昇る位置に第二南門がある。

②春分の三月二十一日頃と秋分の九月二十三日の太陽は、第二東門のあるホトキ山の頂上直下から顔を出す。

③夏至である六月二十二日頃、太陽が上がる位置に東門がある。

④それぞれの日が沈む方角に確認されている見張り台と第二西門が存在する。

⑤西日本各地の神籠石遺跡の中では圧巻の中門の石垣の中央部にある豪華な水門(樋口)は太陽神を祀る巫女が厳粛に身を清めるための禊の場である。高さは約二メートルである。

⑥神殿は北向きで東側から太陽を迎え西側から出て行くように建てられたと私は想像している。東側の壁に直径一センチメートルの穴を開け、暗闇の神殿に光を導き、外部の景色が虚像となって壁に映し出される。

まさにピンホールカメラの仕組みである。壁には何らかの理由で室内にいる日の巫女だけが分かる印が付けられている(私は自分の勉強部屋の雨戸に一センチメートルの穴を開け、太陽光を導き実証した)。

壁に付けた二至二分の印の所に太陽が当たると春分、夏至、秋分、冬至が分かる仕掛けで、季節と月が観測できる。

それから何日かは、月の新月から三日目に三日月が出るのを観察すると月の三日目であることが判断できる。

世界各地に存在するイギリス、エジプト、インド、カンボジア、インカなど古代の天文台は石の建造物であるが、邪馬台国時代の倭人は自然の地形を利用し、山の尾根に三カ所の日の出の御門をつくり、石を積んで、太陽観測のできる装置を造った。

⑦総延長3キロメートルの神籠石の列石群と土塁で囲まれたエリアは、神籬ひもろぎ磐境いわさか斎垣いかきであり、聖域の禁足地である。

⑧確認されている古代国家の末盧国、おつぼ山、伊都国の雷山、帯隈山、奴国の高良山、女山、杷木、不彌国の鹿毛馬、豊前国の御所ヶ谷、唐原の神籠石遺跡が存在し、弥生時代の国の所在と符号する。以下その裏付を検証する。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『邪馬臺國は豐國にあり 歴史学と考古学から読み解く⽇本古代史』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。