そのほかはどんなことがあっても、地球上の何処にいても、必ず駆けつけること。どうでしょうか。馬鹿馬鹿しいとお嗤いになりますか。そんな遊びに付き合ってなんかいられないよと怒りますか。十年なんて忘れてしまうよと仰いますか。

でも私は、人は信じることが出来る、約束を守ることが出来るということを、信じたいのです。

十年後、私は三十二歳になっています。その時お逢い出来なければ、次は四十二歳。それでも駄目だったら五十二歳。私は必ず参ります。でももうおばあさんで、せっかくユダになっても哀しいばかりですね。

その時はただ抱きしめていてください。あの時のように。

その次は――、私は生きているかしら。自信がありません。許してください。考えてみれば、貴方とお逢いしたのはたった一度だけだったんですね。

四年間、ずっとご一緒だったような気がしていました。四年間も貴方をすっぽかしておいて、随分勝手な言い分ですが、お許しください。ご返事、お待ちします――。

そうして二月十三日の金曜日が過ぎ、あなたは卒業式の日を迎えた。その日、郵便受けに、煤を刷いたように薄黒く古ぼけた分厚い詩集が一冊、ぽつんと入っていた。

あなたを描いたと思われる手描きの素描を絵にした、田島からの葉書が挟まれてあった。

――卒業、おめでとう。僕にはちっともめでたくはないが。一番大事にしてきたウィリアム・ブレイクの詩集を、僕の悲劇のしるしに贈ります。

十年後の九月四日、九時四分を、決してお忘れなきよう。その日のことを生き甲斐に毎日を暮らしていく人間が世界に一人、いるのですから。午後九時四分から終電まで、ですね。

人間はめざしの頭にもすべてを賭けることがある。すべてを賭けることが出来る。

僕にとっての今は、つまり過去でしかない。過去を丹念になぞって生きている哀しみとそれなりの安易さは、まったくどうにもならない。

必ず生きていてください。

高田馬場、ユタにて――。

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『となりの男』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。