その日から女二人の生活が漁火で始まった。奈美が来て最初の夜だった。喫茶店は休んだがスナックは定刻通りに店を開いた。その日は雨に祟られて客は二組程度で、その客も一時間足らずで引き上げた。

美紀は外に出て強まった雨脚を確かめると今日は早仕舞いだと言って二人のホステスを帰した。真夜中の午前二時頃だった。美紀は悲愴な叫び声で目が覚めた。

声は隣の奈美の部屋から聞こえて来た。奈美は以前母が寝室に使っていた部屋に寝ていた。叫び声に混じり寝言のような声でしきりに何かを訴えるような声も聞こえた。

一瞬、美紀は二十年前の統合失調症の元夫のことが頭に浮かび恐怖を感じたが、悲鳴は時間にして二分ほどで元夫の時とはいささか様子が違った。

奈美の叫び声は動物の唸り声というより泣き叫ぶ悲鳴に近かった。何を言おうとしているのか聞き取ろうとしたが意味は掴めなかった。奈美の悲鳴が終わったあと、美紀は母の二十年も前の言葉をぼんやりと思い出した。

「お前は首を絞められたあの夜のことがよっぽど怖かったんやね。人間はね、一時の恐ろしいことやとてもつらい体験などで心に深く傷がつくと寝ているときに大きな声を出すようなことがあるそうや。急性ストレス障害とか言うそうやけど」

と説明をしてくれたことが頭に浮かんだのだった。離婚して実家に戻ってから、美紀自身もしばらく寝ているときに悲鳴に近い叫び声を上げることがあった。

美紀は自分が悲鳴を上げたことは覚えていなかったが、母から昨日の夜、悲鳴のような寝言を言っていたと何度も言われたことがあった。

母の智子は、出戻った美紀が夜中に叫ぶようになると娘も精神に変調を来たして狼女になったのではないかと心細くなり、近くの精神科の医院に相談に行きそれなりの知識を得ていたのだ。

奈美は、次の日の夜も悲しそうな叫び声を上げた。素人目にも奈美は心に深い傷を負っているのがわかった。この子にも何か恐ろしい体験か悲しい出来事があったのだろうと美紀は奈美に不憫なものを感じた。

奈美は、漁火に遣って来てからほとんど何もしなかった。美紀の作った食事を済ますと外へ出ることもなく二階でゴロゴロと寝て過ごした。それでも夜中には決まったように悲し気な叫び声を発した。

小さな海辺の町で生まれ育ち、スナック「漁火」で働く美紀には小学生の頃の忘れられない思い出があった――。つましくも明るく暮らす人々の交流と人生の葛藤を描いた物語。
※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。