踊り場でのある日の出来事

ちょっと小空間で生まれた小話を書きたくなりました。奥の陽だまりが気持ちの良い小空間があります。そこは二人の認知症のお婆さん、レイさん、トシさんの集うスペースになりました。二人は長い廊下を毎朝、散歩するのが日課で、端っこにある陽だまり空間の椅子で一休みをしておしゃべりをするのが楽しみのようでした。でも、お二人とも認知症のため、話は全く噛み合わないのです。

そのお二人が、お話に花を咲かせているのは、傍観者にとっては不思議な光景です。それぞれが言いたいことを言って、相手の話には適当にあいづちを打って、また、全然別な話を繰り出す。それでも楽しそうです。幼児達のおままごとに似ているかもしれません。幼児達が一緒に遊んでいながら、自分の言いたいこと、したいことだけやっている光景を思い出しました。きっとウマの合う友達といるだけでやすらぐのでしょうね。

ある時、陽だまりのソファに座る、レイさんとトシさんの診察にうかがいました。まず、レイさんから診察。「お変わりないですか? 元気そうですね」と聴診器を当て、下肢のむくみを確認します。レイさん「まぁ、いつも先生ありがとうございます」とニコニコ笑顔を返してくれました。

次にトシさん。トシさんも診察中はにこにこ。「今年はメロンの作付けが忙しくて。あんまりよくない年でした」と過去の記憶からくる錯話をされました。トシさんはいつもメロン農家の思い出が錯綜して出てきます。

さて、診察を終わって、離れようとすると、レイさんの様子が変です。さっきまで笑顔だったのに、ブスッとふくれっ面で、目を伏せています。看護師が「どうしたんですか?」と問うと、「先生は私の診察をしてくださらないのね」と。隣のトシさん、驚いて「あれ、奥様、先生はついさっき診察されましたよ!」と助け舟を出してくれました。レイさん「いいえ、してませんよ。わたくし、ずっと待ってましたのに」と今にも泣きそうです。困ったな、と思った次の瞬間にトシさんったら「あら、先生、診察してないんですって。してあげてください!」とがらりと責め口調に豹変、流石にずっこけました。

認知症の中核症状は短期記憶障害です。お二人共、診察中のほんの数分のことを見事に忘れてしまった(記憶に入らなかった)のですね。トシさんも私がレイさんを診察していたのを1分しか記憶しなかったということです。

これには苦笑いするしかありませんでした。もう一度、不機嫌なレイさんに「ごめんね、レイさん。診察させてくださいね」と言って丁寧に診察して、背中をさすって慰めました。恐ろしいのは、このあと、トシさんにも再度診察を求められ、永遠の無限診察ループに入り込むことになることです。ということには、幸いならず、二人とも笑顔で「ありがとうございました」と見送ってくれました。

認知症の方とお会いする時はできるだけ、楽しく、ハッピーにその場を離れることを心がけています。不思議なもので、優しい人、楽しそうな人、怖そうな人、という印象の記憶は残っていくんですよね。
 

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『安らぎのある終の住処づくりをめざして』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。