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インド派遣

出発は四月四日、最終荷物は三月の第三週までには出さねばならなかった。

家の片付けは母信子がそのまま住んでいくので比較的楽であったが、結婚して数年が経っていると荷物も増えていて、仕事をしながら休日や夜半に荷造りと片付けをした。

疲れているはずなのに、気が張っていて、美沙は元気であった。赴任地が決まったとき、思い切りショックを受けたせいか、立ち直った時には覚悟ができていた。

そして退職する学校の整理も一仕事で時間との戦いであった。三十代前半の一番エネルギッシュな時代だったのでこの局面を乗り切れたのだと感じたが、実は今の家を出て、初めて夫婦二人の暮らしができるという期待もあった。

結婚後すぐに同居した美沙の日常は、姑信子への言い様のない気兼ねの連続であった。どんなに優しい人であっても自分の家に入り込む若い嫁をそのままに受け入れることはできないのだ。

台所は初めから信子任せにしていたのではない。料理学校にも通って、料理も食器集めも好きだった美沙は新婚の食卓をどのようにしようか、と楽しみにしていたのだ。

しかし、同居最初の朝に、美沙がオムレツを作ったことから事態は一転した。夫が

「朝はね、ハムトーストと目玉焼き、又は納豆、生卵にみそ汁、って決まってるんだ」

と、強い口調で言った。翌朝から母信子は

「我侭な息子でご免なさいね」

と嬉しそうに言いながら、台所にそれまでと同じように立つことになったのだ。ここで喧嘩をするわけにもいかず、嫁に入るということはこういうことなのだと思い知らされた。

夕食も任せて、その代わり、仕事に打ち込める日々を美沙は送ってしまっていた。だから、この度のインド行きはここでもう一度二人の新婚時代を過ごせる機会だと考えていたのだ。

荷造りの時に嫁いだ日に持ってきた気に入りの食器を詰めた。姑に新婚当時「新しいものはもったいないから、しまっておきなさい」と言われて食器棚に並べてもらえなかったものたちだ。

荷造りに勤しむ美沙を見て、信子もまた深い感慨に浸っていた。一人息子をこの嫁に託してインドという過酷な地へ三年間送り出す、しかも嫁は仕事をやめ、気の毒なほど覚悟してついていく、息子の我侭に。

「もう少し、可愛がっておくべきだった」と、まだ若い姑で、知らず嫁と競うように暮らしてしまった日々を省みるのだった。

夥しい量の荷物を運送会社の海外引越し便に託し、婚礼家具も入れたものだから、その日のトラックは二トン車が来た。荷物は周りを木枠で囲んで運び出された。