二章 大阪警察病院入院時代

脱走事件

私は一度だけ脱走したことがあった。週に一回の筋肉注射が嫌で嫌で、誰にも言わず屋上に逃げ込んだ。実際のところどのくらいで発見されたのかは分からないが、子供の私にはとても長く感じられた。谷池先生に見つけてもらった時は、私はなぜか堰を切ったようにわぁんわぁんと泣いてしまった。

振り返ってみると、私の精一杯の抵抗だったのだろう。それと同時に、誰かに見つけて欲しいという気持ちもあったのかもしれない。言うまでもなく、先生には「元気になるために頑張られへんのやったら、すぐに退院させてあげる」、「元気になって欲しいと思ってくれている人たちを心配させたらあかん」とこっぴどく叱られた。

私は自分のしたことを棚に上げ、先生を睨んで「もうちょっとだけしか、頑張れへんから」と返事をしたのを憶えている。大人になった今の私からすると、ただの生意気な子供のはかない抵抗だ。

退院のキッカケ

谷池雅子先生のアドバイスが退院のキッカケとなった。ましになった関節痛、赤く腫れた指や三八度ほどの発熱の症状は継続していたが、このままだと私が学校生活も知らずに、友達もできずに育ってしまうのを懸念して下さったうえでのアドバイスだった。

私にとって退院は待ちに待った嬉しいことだった。先生にしつこいくらい何度も確認した。先生は私に、「よく頑張ったなぁ、そろそろ家に帰りたいなぁ」と言ってくれた。先生からの言葉は子供ながらにジーンときた。

私が医療ソーシャルワーカーとして医療現場で患者さん達を診るようになって、初めて谷池雅子先生の真の偉大さを知った。谷池先生は、私の病気だけではなく、それを含めた私個人と私の将来に対して真摯に向き合い考えてくれていたのだ。

患者さんの人生や将来を患者さんと一緒に考えるのは理想だが、それは容易なことではない。なぜなら、確固たる自信と強い精神力がないと無理だと私は思うからだ。

私が作った“偉大なる人たち図鑑”には、もちろん谷池雅子先生のお名前も入っている。“偉大なる人たち図鑑”とは私が頭の中で勝手に作った図鑑だ。いかにも高級そうな渋い赤のベルベット生地のハードカバーで、表紙には刺繡された金色の文字で“偉大なる人たち図鑑”と書かれてある。

その図鑑に名前が入るのは簡単ではなく、私の中での審査に合格しなければならない。図鑑に名が載るのは少しだけ名誉なことである。改めて谷池雅子先生には感謝の気持ちで一杯だ。いつか「まともに育ちました」と誇らしげな気持ちで谷池先生に会いに行きたいと思っている。