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擬態

枯れ葉にそっくりな蝶の写真を、誰もが一度は見たことがあると思う。あれが擬態だ。

どうしてあのような姿に生まれてきたのか、全く理屈が分からない。進化論では説明がつかないとして論争が続いているが、いまだに結論は出ていない。分かっているのは、擬態によって敵の目を欺いて生き延びる確率が上がるということだけだ。

男の子たるもの、昆虫好きと決まっているが、僕もご多分に漏れず、夏休みには昆虫採集に精を出したり、昆虫図鑑を飽きることなく眺めたりしていた。そして図鑑に登場する変装の達人たちの姿を見ては、あっけにとられていたものだ。

昆虫の擬態では、コノハチョウなどが最も有名だろう。枯れ葉の破れたところまでも再現していて、本物と見分けがつかない。木の枝にそっくりな蛾の幼虫や、ナナフシなども有名だ。

姿だけではなく、例えば腐肉の匂いを真似て昆虫を捕食するラフレシアなどの植物も広い意味で擬態と言える。そんな僕が入った大学にたまたま擬態の専門家がいたのである。

生物学の綾子先生だ。

綾子先生は准教授だが、この大学では主要な講座ではない生物学教室は現在教授が空席になっているので、綾子先生がほぼ一人で取り仕切っている。だからその教授室は現在は正確には准教授室である。

噂によると、その部屋にはたくさんの擬態昆虫の標本があり、なかには生きているものが飼育されていたりもするらしい。そんな噂を聞いた僕がじっとしていられるわけはない。

しかし綾子先生は、よく見ると可愛い顔をしているのだが、厳しくてとっつきにくい先生だ。あまりおしゃべりではないし、何を考えているのか分からない雰囲気をまとっている。

年齢は四十歳ぐらいだろうか。生物学の准教授ならそれぐらいの年齢でも珍しくない。身長は百六十センチ前後、痩せ型、色白で、長い黒髪を後ろで束ねている。

どういう理由で話しかけたり、ましてや准教授室に入ることができるのだろう。まあ理由なんかどうでもいいか。単刀直入に

「私は擬態に興味があるので先生のコレクションを見せて下さい」、

これで良いんじゃないか。

ある日の講義の後、まさにそのような口調で先生に話しかけた。

するとあっさりと、どうぞと言って部屋に招き入れてくれたのだ。生物学の研究室と教授室は、普段僕たちが講義を受けている新しい建物を出て少し歩いたところにある旧棟の三階にある。