「疲れているのに毎日来てくれて悪かったね」

「ううん、全然。嬉しかったし楽しかった」

「朝早いんだろ。ちゃんと寝てるの」

「大丈夫、ちゃんと寝てるから」

と静かな微笑みを見せてくれた。冷静に考えれば笑える状況とは思えないが、向かい合う男の心情を察してくれたのであろう柔らかい笑顔であった。

「明日から山梨だな、どんなとこなんだろ」

「石和って、甲府の隣で葡萄畑もあるみたい」

「そうだね、山梨だから葡萄はいっぱいあると思うよ」

「小学校の社会で習った気がする」

「確か三年生か四年生の授業だったな」

ごく普通の会話をしているうちに、あっという間の時が過ぎた。

同時に、ふっと現実に戻されたような気がした。明日から知らない土地へ行くことへの不安も少なからずあった。もうすぐ聡子が病室を離れていく時間なのだという焦りにも似た寂しさもあった。どうすることもできない現実に戻されていた。

「俺これからどうなるんだろう」少しずつ不安感が増し思わず口をついた。

「もう半年経つのに……」

手術が終わった後「松葉杖を使って立てるようにはなるかも」と医者が言った言葉を父は話してくれたが、自分はそれ以上に良くなるんだと思い続けていた。しかし遅々として進まない回復に苛立ちを覚えての言葉でもあった。

「治るのかなー治らないのかなー、どうなるんだろう」

聡子は何も喋らなかった。

「もう半年なのに手がちょっと動き出しただけだ。駄目かなーもうこれ以上駄目かなー」

言っているうちに自然と涙が出てきた。

「少しずつ良くなってるじゃない」

「ううん、これだけだよサッチン」

左手を曲げたが顎には届かなかった。悲しいというより口惜しさが頭の中をいっぱいにした。

「もう治らんかもな。そしたら俺どうしよう。どうしたらいいんだろう」

こみ上げる涙を止めることはできなかった。物音一つしない一瞬の静寂が、走った。

「私がいるじゃない」

搾り出すような口調で聡子が言った。目には涙が滲んでいた。

「ありがと」

それしか言えなかった。

聡子の一言は決して軽い言葉ではなかった。十九歳の娘が結婚の約束もしていない手足の動かない男に、再び歩けるようになるかどうかも分からない男に、どれだけの思いで発した言葉なのか。

窮地の男の心情を察してやむにやまれず発したように思えたが、慰めの言葉ではなかった。気休めの言葉でもなかった。

深くて強い意思を感じさせる言葉のように聞こえた。嬉しかった。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『季節の向こうに未知が見える』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。