相変わらず、一〇時過ぎの出勤で、デスクに座って、通勤途中で読み残した新聞記事に目を通していた。

卓上電話が鳴る。

事件相談かとときめく。しかし、それも一瞬だった。

電話のディスプレイに市外局番が表示された。

あーあー、またセールスものか、と思って受話器をとった。

「はい、丹前法律事務所です」

電話の相手の反応がない。

少々イラッとしながら、「もし、もし」と呼びかけた。

ようやく応答があった。聞き取りにくい低い男の声。

「丹前先生ですよね。検事をしていた」

一瞬、どういうつながりの人だろうかと怪しむ。

少しの間があってから返事して聞き返した。

「はい、そうですが、お宅は?」

しばらくの間。

そして、その不気味な間を破るように相手の口が開いた。

「今日のところは、奈良でお世話になったとだけ話しておきましょう」

そう言って男は黙った。電話は繋がったままだ。

無言の交信状態の中、頭の中はタイムマシーン状態で過去を遡る。

奈良と言えば、一〇年以上前に検事時代、勤務していた所だ。わざわざ電話してきたというのはどういうことか? いったい何者なんだ、こいつは。受話器を持つ手に汗がにじんだ。

相手の話しぶりからして奈良地検時代に処理した事件の関係者と思われた。

瞬時に、頭の中で、記憶のかけらの山からズームレンズを使って一つ一つ拡大させるようにして当時の記憶をたどる。何か人に恨まれるような問題を残した事件はなかったかと。

何も思い当たらない。

少しの間があってから、こちらから問い返した。

「奈良のどういった件でしたか?」

無言。

プー。受話器に電話が切れる音が虚しく残った。  

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『ヤメ検・丹前健の事件録 ―語られなかった「真相」の行方―』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。