伊助は奥の座敷に床を敷いて伏せている父親の平吉に声を掛けた。

「お父っつぁん、河原新田に行ってくるぜ。おっ母さんも一緒に行くからおとなしく寝てるんだぜ。昼には戻るから」

平吉は六十八歳になっていた。数年前から体を壊し寝込んでいる。

伊助は一日でも早く下々田程度まで改良して米を作りたいと開墾に精を出していた。幸い河原新田の水利は良く、土の入れ替えができれば米を作ることができる。林の灌木を伐採し、根を掘り起こして枯れさせ、燃やして土にすき込む。そして鋤で土を掘り起こしては玉石をよけ、もっこで運び出した。

このもっこ担ぎは重労働で、母親の初とふたりで担がなければならないため一回に玉石を運ぶ量も限られていた。また、あまりの玉石の多さに土地の隅々に山のように積み上げるため隣地の地主から、洪水で崩れて石が転がり込む懸念を訴えられたり、危険だと文句を言われたりする始末であった。それでもなんとか土起こしまでこぎつけた。

「伊助、この土地は田んぼにならないんじゃないかね。これだけやってもいくらでも玉石が出るからねえ」

「そりゃあもともと河原地だからいくらでも玉石は出ると思うが、でも田んぼにするには二尺もいい土があればいいんだから、とてつもなく掘り返さなくてもいいんだ」

「そうかねえ。まあおめえがそう言うんならもう少し頑張るかねえ」

こうしてふたりで少しずつ耕作できる土地を広げていった。

天明の飢饉は奥州を中心に天明二年から五~六年も続いた日本の近世史上最大の飢饉である。天明三年の浅間山の噴火もあって東日本全体が飢えに襲われ、一家離散や死亡する人々が相次いだ。

天明救荒録(『翻刻歴史史料叢書4.近世気象災害志』)には、

天明二年三月初めより雨が降り出し、八月まで気温が低い日が続き、作物が育たなくなってきた。

天明三年には正月から大雪が降り、寒さが厳しく、六月下旬になっても早稲の穂が出ず、八月下旬まで雨天の日が多く、甚だ低温で夏の土用中も帷子・単物等を着ることなく綿入やあわせを着る有様であった。

御収納米は平年の五分の一迄にも至らず、家中の年貢は六分まで低下し御上も下も全て穀物など食べ物が乏しくなっている。

又もの、農工商民は雑穀へ葛・わらび・ところの根を交ぜて粥や餅団子にして食している。三月頃迄はなんとかしのいできたが、その後はこれらも食いつくし草木の根等を掘る気力も尽きはて、草木の萌が出るのを待ちかねて、なずなやその他の名も知らない草木の根や葉を摘み取って、藁の粉・米ぬか等を交ぜて粥にしたり、餅や団子として食して飢えをしのいでいる。

天明四年春より餓死するもの、疫病で死ぬものが出てきた。四月頃より疫病が一般に流行し、餓死や疫病死の民は六月迄におおよそ八千五百人余り。老人より壮年の者が早く弱り、死んでいくと言われている。

などと記され、誤りや記憶違いもあろうが大飢饉の様相が明らかにされている。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『ゑにし繋ぐ道 多摩川ハケ下起返物語』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。