「どうも長時間、ありがとうございました」

沙也香は深々と頭を下げ、そして磯部の顔を見て聞いた。

「あのー、一つうかがっておきたいんですが、これからわたしはどういった方面に重点をおいて勉強すればいいでしょうか」

「そうですね。『古事記』は読んだことがあるといわれてましたね。でも学者が基本的な参考文献として使うのは『日本書紀』ですから、まず『日本書紀』に一通り目を通しておく必要があります。それから必要に応じて学者の書いた参考文献を読んでいくことでしょうか。どちらにしても長丁場ですよ。何年もかかると覚悟しておいてください」

「そうでしょうねえ……」沙也香は思わずため息を漏らした。

磯部が靴を履き玄関を出ていくのを見送ると、沙也香はまゆみが座っているソファーの正面に腰を下ろした。するとまゆみが意味ありげに笑いながらいった。

「磯部さんって、沙也香さんに気があるみたいですよ。わたし、びんびん感じたもの」

「あら、そうかしら」沙也香は意識的に素っ気ない口調で応じる。

「そうですよ。気がつきませんでした? だって、沙也香さんを見る目がハートマークになってたもの」

「まさか! それじゃあ、まるでマンガじゃない」沙也香はおかしそうに笑った。

「ほんとですって! 彼、沙也香さんにぞっこんですよ。わたしのカンは外れたことないんだから」

「まあ、それならそれでもいいじゃない」沙也香は取り合わないことにした。

もちろん、人一倍鋭い感性を持つ沙也香がそんなことに気づかないはずがない。でもそれは磯部だけでなく、ほとんどの男性が彼女に向けてくる熱い視線だ。しかし沙也香はどんな相手に対しても、そんな感情にはいっさい気づいていないふりをしてきた。

「でも磯部さんってすてきじゃないですか。まだ若いのに准教授だし」

「そうね。でもわたしはいまそんなこといってられないわ。やらなきゃならないことで頭がいっぱいだから」沙也香はその話題を打ち切ることにした。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『日出る国の天子』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。