彼女たちは浜の小道の通りがかりに、その他人の私有地を仕切る網代垣(あじろがき)に付け立てた簡単な案内板に目をとめた。

そして多少迷いながらも、私有地内の小さな別荘の、寝殿造りを模したような黒い建物に、一人、次いでもう一人と、興味を惹(ひ)かれて五人まで集まってきた。

木々が雑木林のように繁茂した敷地の中に、その黒い和風の屋舎はよく調和していた。小造りな本殿と見立てられるその建物から、南寄りに林の小道を歩くと、やがて松木立の中を抜けて海辺の砂浜に出られる。

その海に向いた砂浜の上空に、月が明るく照る夜、十五夜前後の晴れた日に、女たちだけのために、皆揃って月を仰ぎ、思いの丈(たけ)自分たちの舞いを月の神聖な光に捧げる。

ともに楽しみませんか、と案内板に書かれていた。

そうした魂の清らかな行為を、独自の儀式に仕立てた、いわば創始者である高弥(たかみ)さやのもとに、若い彼女たちは一人ずつ月夜の儀式に舞姫として加わり、毎月一度の晴れた夜に浜辺に集(つど)うことになったのだった。

一人目の植森朱美(うえもりあけみ)が初めて別荘の内に入ったとき、所有者の高弥さやは四十三歳。

すでに侍女(じじょ)として高弥さやに仕えていた近瀬(ちかせ)しおりと中松貴美江(なかまつきみえ)も、ともに月夜に舞いを捧げる儀式に携わっており、三人だけで一年ほど営んでいたところに、舞姫を一人、初めて迎え入れたのだった。

植森朱美は、自分よりも二十年も年上の高弥さやが、全く年齢を超脱したように美しい肌と整った顔立ちをしている容姿にまず目を見張った。

そして何らかの使命を帯びたふうな女性として凛然としている風貌に、尊敬の念を抱くことができた。高弥さや自身には宗祖というほどの格別な自覚はなかったけれども、朱美はそう見なして、女性の模範のように信頼した。

面談のときに高弥さやから、踊りやバレエなどのことが好きなのですかと問われ、朱美は学校時代から体育が得意科目で、体育大学のダンス学科で各種目別に学んでいたことがありますと答えた。やや気の強そうな顔立ちの、しっかり者の答え方をする美女だった。