久連山と呼ばれた男は、その伸びるに任せた長髪の隙間から俺を見つめ、抑揚のない挨拶をした。

「どうも、芹生です。よろしくお願いします」

「芹生は大学時代の同窓で、これから愛澤企画の社員になる。正式には契約書を交わした後だが。オフィスの先輩としていろいろ教えてやってくれ」

「承知しました。愛澤先生」

久連山は、頷いた。

「さっそくだが雇用契約書を作ってくれ。主な条件はこのとおりだ。細部は任せる」

川島は条件を書きこんだメモを久連山に渡した。

「お預かりします」

久連山はこの広いペントハウスのどこかへ消えた。再び二人だけになり、さっきよりさらに重みを増した空気が圧しかかってくる。勝ち組と負け組、これほどにコントラストが明瞭な風景の中に自分が身を置こうとは。

「島崎さんには会っているのかい?」

川島が訊いてきた。

「たまに作品を見ていただいている」

「で、反応はどうだ?」

口調の柔らかさとは不釣り合いな鋭い視線が、俺の反応を待ち構えている。

「ご存じのとおり、まだ出版に値する評価は得られていない」

「ふーん」

川島は、さもありなん、という表情を浮かべた。

「彼は出版業界でも名うての辣腕らつわん編集長だ。売れる作品、売れない作品を嗅ぎ分ける嗅覚は右に出るものがいない。一方で文学への造詣も相当に深い。中堅だった葭葉出版を準大手にまでのし上げた立役者だ」「ああ。俺も島崎さんを尊敬している」

川島の質問からすると、どうやら俺の持ち込み作品については何も話していないようだ。やはり島崎は信頼できる人物だ。

「でも葭葉出版の最大の功労者はわたしだけどね」

そう言って川島はにやりとした。久連山が戻ってきた。川島は黙って契約書を受け取り、中身をチェックして軽く頷いた。

「これが芹生の契約条件だ。確認してくれ」

川島は目の前に、その無機質な数字と法律用語の並ぶ紙片を広げた。

「給料は税込み月百万。他、社会保障費の半分はオフィスで負担する。それなら沙希ちゃんも安心だろう」

と言って川島は俺を見やった。俺は無言で頷いた。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『流行作家』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。