これは、英国で一九六六年に発表された全ての肖像画やそれに類する人物画の中から、最も話題になった作品に与えられる賞でね、このような新人が受賞したのは、賞を創設して以来初めてのことだった。フェラーラの絵は昨年秋の新人賞受賞以来、殆ど毎月のように新聞や雑誌を賑わしていた。

一九六八年、エジンバラ芸術祭特別賞受賞。一九六九年、絵画部門フィレンツェ賞授賞。同年、アムステルダム絵画コンクール特別賞受賞。毎年、毎年、主要な絵画のコンテストに受賞し続けたのだからね、これは凄いことだった。

しかし、これほど短期間で有名になったフェラーラだったが、絵を描くスピードは少々遅くて、毎年数点しか仕上げられなかった。

私にとってこれは不満でね、たくさん仕上げてもらえばもっと儲かったのにと正直思っていた。もっとも製作点数が少なかったので、当時、好事家の間では評判になって、かなり高く売れたんだがね。

そういうわけで、金に糸目をつけずに買い取られたため、フェラーラの絵の殆どが個人所有になってしまった。パブリック・コレクションとしては、ロンドンのナショナル・ギャラリーの一点をはじめとしてわずか数点にすぎない。

ほとんどは愛好家のところに死蔵されてしまったから、フェラーラを覚えている人もだんだん少なくなってしまった」

しばらく黙っていた宗像がそこで口を挟んだ。

「生涯で二十八点の油絵しか残していないことが大きい理由でしょうが、その多くの絵が個人所有になっていることも、ピエトロ・フェラーラ研究があまり進まなかった原因なのですね? それで尚一層、ミステリアスな画家になった」

「それにもう一つ付け加えれば、彼の死後、つまり七十年代の後半になると、そういう絵はただ、ラファエル前派の亜流と見なされてしまったんだ。それで顧みられることもなくなった。だが今でも私はフェラーラの絵はそれとは別物の傑作だと確信している。名のある研究家が出てくれることを熱望しているよ」

「その点に関しては全く同意見です」

宗像もこれには同調を示した。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。