そのこともあり、近江屋は半年という短い期間で立て直すことができたのだ。さて、なんとか持ち堪えた近江屋だが、そこにとある客が来た。

この者は名をお菊、と言った。お菊は近江屋からさほど遠くない花街で舞妓として働いていた。母親は幼い頃に亡くしており、借金の形に売られた口だった。

何故訪れたのか……それは少し前に起こったとある心中事件が原因である。二ヶ月ほど前だっただろうか。お菊は風邪を拗らせて医者に通っていた。

そして、治療をしている際に心の臓が悪いと判明したらしい。誰かにうつるような病ではないが舞妓のような身体が一番の仕事は続けることが困難だと医者は言ったそうだ。

お菊はたいそう悲しんで、当時贔屓にしていた相見という青年と心中を図り、その兄弟子でお菊の本命である相良という青年に遺体は周りに内緒で埋葬して欲しいと頼んでいた。

しかし、いざ事を起こしてみると、相良はお菊を愛するが余り、相見を殺めてしまい、お菊を連れて逃げだした。

程なくして下手人として捕えられた相良は投獄、お菊は店を辞めさせられてしまったのだそうだ。困ったお菊は主人に頼みこんで主人の昔馴染みという近江屋に紹介してもらった。

お菊は心の臓が弱いので近江屋の主人は下働きの者たちを集めて事情を話し、お幸の話し相手として雇うこととなった。無論、この決定に反対する者はおらず、寧ろ皆喜んでいるようだった。

それというのも、お幸の話し相手も仕事内容に含まれているのだが、ここのところ忙しく、あまりお幸の相手をしてやれるものがいなかった。

皆、そのことを心苦しく思っており、お幸の話し相手が一人でも確定していれば安心して他の仕事が疎かになることもなくなる、と考えていたのでこの決定は素直に喜ばしいことだった。

お菊は舞妓時代に磨いてきた踊りや琴を教えたり、いろいろな楽しい話をして聞かせたりとお幸の良い話し相手になった。お幸も喜び、近江屋の主人もすっかり安心していた。

お幸はお菊の事情を知らなかったが、敢えて聞くようなことはしなかった。それがお菊にとって心地よかったし有り難かった。

下働きの連中もやっかみや僻みでお菊に嫌がらせをすることはなかったので、お菊はここに来ることができて本当に良かった、と心底幸せに思うのであった。

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『水蜜桃の花雫』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。