現代風の風俗や聞こえてくる不協和音を嫌い、黒人の娘が白人と踊る場面にも不快感を抱いた。この芝居が「わいせつ」で「共産主義的」だと非難した彼は、映画化権を手に入れたことを後悔しながら劇場を後にすることになった。

「オン・ザ・タウン」はブロードウェイで四六三回の公演を重ねるヒット作となったが、スタジオはこの企画を握り潰した。

一九四六年十月、コムデンとグリーンが「グッド・ニューズ」('47)の脚本を書くためMGMにやって来るにあたり、エージェントや弁護士からは「オン・ザ・タウン」の脚本を書いた話は持ち出さないようにと釘を刺されていた。

それほどこの話はタブーになっていたのだ。しかし、四十八年一月に始まった「ブロードウェイのバークレー夫妻」の脚本作りの間にフリードのオフィスに呼ばれた彼らは、「オン・ザ・タウン」の映画化(邦題「踊る大紐育」)の話を告げられ有頂天になった。

「オン・ザ・タウン(踊る大紐育)」の製作が再浮上した理由は謎だが、二つの可能性が考えられている。

一つはブロードウェイ版の演出を担当したジョージ・アボットが、MGMから好きな作品を監督して良いと言われこの作品の名を挙げたことがきっかけになったという説。

もう一つはドーア・シャーリーの存在である。

一九四八年七月にMGMの製作責任者になった彼は経費削減のため脚本部をくまなく調べ、長い間お蔵入りになっていた原作のいくつかを映画化することに決めた。

その内の一つが「踊る大紐育」であったというものだ。

ただしこの説は「“ブロードウェイのバークレー夫妻”の脚本作りの間にフリードから聞かされた」というコムデン&グリーンの話とは時期的に矛盾する。同作の脚本作りは四十八年前半に行われていたからである。

もっとも、フリード自身は四十八年前半に映画化を考えていたものの、会社のお墨付きをもらったのは製作の実権がシャーリーに移った四十八年後半であったと考えればあり得ない話でもない。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『踊る大ハリウッド』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。