第二章  出会

(一) 

それから十年の歳月が流れた。

大野郷の集落に最も近い多摩川の岸辺から三町ほど北に上ったところに東西に細長い開墾地があった。河原新田といい、字名は欠差(かけざし)という、欠差とは度々洪水によって土地が流される場所、河川敷というほどの意味である。

河原新田は内藤新田の飛地で、享保九(一七二四)年に三町三反八畝の開発割渡しがなされ、検地が行われたのは二十四年後の延享五(一七四八)年であった。高入りは七石一斗七升で下々田、砂田、見付田、見付林、林畑、芝畑など荒地同様の土地柄であった。

名請け人は十一人、開墾にあたったが、欠差という名のごとく多摩川の氾濫によって度々洪水の被害を受け、開墾の手戻りが絶えなかった。そのため検地までに長い年月を要したのである。

その後も河原新田は度重なる多摩川の洪水被害に遭い、手放す村人が絶えなかった。名主の藤左衛門が村人からこうした土地を買い受ける者を募ったが現れなかった。

そんなとき伊助が手を挙げた。村人はあきれてやめておけと忠告したが、田んぼを持ちたかった伊助は名請け人のひとりでもある藤左衛門から林田と見付畑五反七畝歩を安く、さらに十年割賦で買い受けた。それから来る日も来る日も田んぼ作りのための土の掘り起こしと石拾いがはじまった。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『ゑにし繋ぐ道 多摩川ハケ下起返物語』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。