フェアプレーはなぜ必要か

フェアプレーの精神が大切だということは、高校野球の開会式でも宣誓されるほど当たり前と思われています。しかし、それがなぜ大切なのか、それを大切にしたらどのような良いことがあるのか、ということについて、私はかなり長い間、無頓着に過ごしてきました。

スポーツをする時はフェアプレーが大切だが、ビジネスにおいてはなりふり構ってはいられないという風潮もゼロではなかったと感じています。

ルールを破っても審判によるペナルティを受け入れれば、試合として公正だという考え方もある一方で、ルール上は禁止されていなくてもルールの根底の精神に反していることは守るべきという考え方もあり、他方でルールより上位の人としての在り方やマナーとして守るべき約束があるという振れ幅の中で、学校体育におけるスポーツを卒業すると、ルールギリギリが当然という風潮はないでしょうか。

しかし自己の利益のためにルールギリギリを狙う、または罰則がなければ違反しても良いという姿勢は、お世辞にもフェアプレーとは言えないでしょう。

フェアプレーは相互的なものだとすると、競争相手にも同じ土俵に立ってもらわなければ、フェアプレーの精神を守る側が一方的に不利な状況に置かれることが多いという点も問題です。

こうしてみるとフェアプレーというのは神話か、それともマナーに関するある種の慣習、様式美のようにも感じられます。長い目で見ればフェアプレーの精神こそが自己のブランディングであり、評判や信用といったアドバンテージを維持する上で有用なものであるという考え方は多くの人の賛同を得られると思います。

しかし、残念ながら、そのために1つひとつの試合の局面では多少不利でも歯を食いしばるべきということを正当化するには全く足りません。

なぜなら多くの場合、小さな成功の積み重ねが大きな成功へと至る道だからです。そしてまた、競争環境下では、長期的な最適化戦略をとるプレイヤーが、短期的な敗北によって退場させられるのもよくあることです。

フェアプレーの精神は、無用のものとして淘汰されていくか、形骸化してゆく運命にあるのでしょうか。

私は、短期的な局面で勝つためにこそ、フェアプレーにこだわるべきと考えます。

ペナルティがなければルールに違反してもよい、あるいはルールに抵触しなければ何をしても良い、と考えた時、その人は行動規範をルールという外部的基準に全面的にゆだねていると言えないでしょうか。