インド派遣

義母の立場を尊重するのは理解できても、少し悔しさも残る。だがこれでもし受かって、派遣となればお義母さんを一人にすることになるのだ、と現実的に考えると仕方の無いことだと、美沙は納得せざるを得なかった。

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これから先の二人の長い道のりは、この日を境に急に方向が変更になったのを二人それぞれに再認識して、その夜はあまり遅くならずに、ヤキモキして二人を待ちわびる母のいる家にもどった。

まだ年度初めの五月の爽やかな夜だった。この制度は古く、戦前からタイのバンコクやフィリピンのマニラなどに日本人学校があり、戦後海外で働く日本人の子弟のために日本の教育に沿った教育がなされる学校が世界のあちらこちらにできた。

当初は外務省の外務公務員としての赴任で、臨時的な措置を取られていたが、やがて海外在留邦人の激増に伴い、文部省(現文部科学省)に委ねられ、昭和六十年代には、公立私立に勤める教員の応募によって試験選考が行われ、文部大臣からの委嘱で派遣されるようになった。

一次試験は書類審査で各教育委員会所属学校長の推薦に因る。二次は文部省で論文と面接があった。翔一郎は『在外教育施設に臨むに当たっての心構え』のような論文は卒なくこなした。

面接では「貴方は醤油など日本の食品がすぐに手に入らない国でも暮らしていく自信はありますか?」との質問に、それまでの在外派遣経験者のアドバイスもあって、「あります」とキッパリ応えた。

その時から合格したいという希望と、どこの国へでも赴かねばならない、という不安がない交ぜになって、発表を待つことになった。

そして、翌年の一月の始め、インド デリーの日本人学校派遣の内示を受けた。その日、まだ正月気分で家にいた翔一郎は、電話で学校長より知らされ、その場に立ち尽くしていた。

思いも寄らぬ、派遣先に唖然としたままだった。美沙もそれを聞いて、まだ新学期の始業前だったので引きかけの風邪をこじらせ寝込んでしまった。

思った以上にことは厳しく展開したのだった。友人の三井が一回目の応募でドイツへ赴任したと聞いて、「どこへでも行きます」という踏み絵があることと、提出書類の書き方など助言をうけていたが、そのとおりに書いたわけだから仕方のないことだ。

それにしても友人の派遣先とのギャップが大きいと感じていた。美沙の引いていた冬の風邪は珍しく発熱もあって、そのまま倒れこむように臥せったまま丸一日は殆ど起き上がれず、姑の信子をさすがに心配させた。

「美沙さん、大丈夫? 貴方にはご苦労をかけるわね」

と、声をかけられた。

美沙は部屋のドアを開けて信子の声のする階段下に歩み寄った。

「お母さん、大丈夫です。丁度風邪で熱が出ていたのですみません。お母さんに移してもいけませんから、もう少し寝たら起きますから」

と、他人行儀に応えた。そのままもう一度ベッドに戻り、

「このままではいけない、なんとか元気を出さねば」

と自らを奮い立たせていた。平田よう子はその年の三月まで千葉県のF市内の公立小学校に勤務していた。しかし、夫の在外教育施設派遣に伴い、インドのデリーに赴任するべく、仕事への思いを断ち切って退職をした。