長い間お勤めご苦労様でした

支店長、お世話になりました。

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裕也はまだ実感がないまま、部下からの労いの言葉を受け、戸惑いの笑顔で会釈した。

六十歳か……。明日からはネクタイをすることもないか……。もう少し感慨深く迫りくる感動があるかと思ったが、拍子抜けした自分に軽くため息をついた。

振り返れば、団塊の世代ジュニアと呼ばれる人生を送ってきたが、就職した時代は第二次オイルショックで、高校しか出ていなかった裕也はやっと入れた会社でガムシャラに働いた。

楽しいというよりは苦しいことが多かった為であろう、会社に未練は全くなかった。帰りの通勤電車に揺られながら、企業戦士として通ったこの電車の人息の蔓延した臭いもいずれ忘れさるだろうと、他人事のような錯覚を覚えた。

いつもどおりの時間に帰宅すると、妻の幸子がいつもの笑顔で出迎えてくれた。

「お帰りなさい。長い間お勤めご苦労様でした」

儀礼的ではあるが労いの言葉に、ああ、と照れ隠しの生返事で答えながら疲れ切った背広を脱いだ。

今夜の食事は定年のお祝いだから、労いのお銚子が二~三本はついているだろうと期待していたにもかかわらず、いつもと変わらない夕食のメニューに少しがっかりしながらも、明日あたりはつつましやかながらご苦労さん会があるだろうと気を持ち直した。

が、セレモニーは二日過ぎ三日過ぎても催される気配が無いままに終わった。俺の三十八年間を誰か癒してくれ……。

軽い失望を抱いた裕也だったが、考えてみれば、学生時代から定年を迎えるまでの四十数年間は、何事においてもあきらめの人生だったように思える。

高校時代はバンカラを気取って町中を闊歩していたが、身近の他不良グループとの喧嘩にいつも敗れて力と器の無さに気付き、優等生を目指すも、頭が追いついていけずため息と懸念けねんを覚えたのが最初だった。

女性にも一通り興味はあったが、硬派を気取っていたためか、自分から誘いをかけることはなかった。というより、声を掛ける勇気がなかったのだ。

それからは人畜無害な一般人を目指し、出世など考えもしないサラリーマン人生を生きてきたのだった。

やがて、定年を迎えてから一カ月、二カ月が過ぎ、「しばらくゆっくりしたら?」の妻の優しい言葉に甘え、朝は十時に起床、昼間は近くのゴルフ練習場で時間をつぶし、夜は夕方から早めの晩酌……。

人様があくせくと働いている時に何と優雅な生活だろうと思いきや、わずか三カ月でやることが無くなった。それからは退屈な日々と、妻の命令であるゴミ出しの日課へと羅針盤が動き始める。