目の前にある世界がいつもの世界として違和感なく現れる(捉えることができる)のは、記憶されたパターンから大きくズレていないから。

例えば、自分の机を一目見ただけで、違和感を覚え、誰かが机を触ったかどうかわかったり、身近な人の話し方の微妙な変化に、何か普通じゃないことが起こっていることを察知する。

記憶とセットの快不快の情報

三角形は、四角形やその他の多角形に比べると、辺に挟まれた内角が小さいことが多い。つまり尖っていることが多い。三角のもので遊んでいて痛い目にあったからかどうかはわからないが、三角は、痛い、という感覚と繋がっている。図形の中で心地良いのは○で、×は避けたい。

──ちなみに、○×方式は海外では通用しない。該当するところにチェックマークとして、×を記入するのは海外では割と普通。

まだ言葉を話せなかった頃の私を連れて、母がいつもの生活ゾーンを離れてある方面に行こうとすると、私が突然大泣きをする。

母は何で泣くのか理由を考えてみるに、そっちに、予防接種を受けた病院があるからだ、と思い至ったとのこと。私には、そっちの風景が、注射の恐怖と共に記憶されていたのだ。

幼稚園で、カエルの歌(カエルノウタガキコエテクルヨ……)を輪唱で歌う、という時間があった。同じ歌をズラして歌うだけで、パズルがパシっと嵌まるような高揚感があった。

以後、静かな湖畔の輪唱含め、音楽の授業やバス遠足などの数々の体験を経て、複数パートが絡む合唱は、心地良さと固く結びついている。

このように、ありとあらゆる記憶には、快不快の強度情報が伴って(例えて言えば、ラベルが付いて)いる。

ところで、怪我した時の痛みと、ダッシュして酸素不足で苦しいのでは、不快の種類が違うように、快不快には複数の感覚要素が絡んでいる。

本書では、そういった要素を総合した強度指標という意味で、快不快の強度情報という言葉を用いる。

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『意思決定のトリック ―身近な体験に基づいた人間理解―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。