「ええ……たしか、私と同い歳とお聞きしましたが……」

「そうだ。きみと同じ、明治三十八年の生まれだ。つまり弟は、親父が出征中に生まれたというわけだが、親父が出征したのは、その前年の六月だ。

日露戦争は、今では華々しく語られているが、それは今もいったように文字通り、国家存亡の大戦(おおいくさ)で、あの親父もさすがに、母と水盃を交わして出征したそうだが、ところがどっこい、親父は別の女性とも水盃を交わしたうえ、情まで交わしていったんだ。

そして翌年四月、弟が誕生したというわけだ。

むろんはじめは、水盃を交わすだけのつもりだったらしいのだが、親父にいわせれば、人間は道理だけで生きてるわけではなく、わけても男女の仲に関しては、互いの心と心が一つに融け合い、行きつくところまで行かなければ収まらないもので、そのために人は死をも厭(いと)わないし、いまだ近松の『曽根崎心中』が廃(すた)らず、『忠臣蔵』に負けず劣らず上演されているのもそれ故で、それはまた乃木将軍の殉死同様、といっては不謹慎かもしれないが、人々はそこに、魂に順じた誠実な人間の生きざまを見ているからで、矛盾しているようだが、それではじめて、心底(しんそこ)生きる希望も死ぬる覚悟もでき、晴れ晴れとした気持ちで出征することができたともいっていたよ。

まあ、世間にはざらにある、ごくありふれたふしだらな話で、『過(あやまち)ちを文(かざ)る』ようにも聞こえるかもしれないが、けっして身贔屓(みびいき)ではなく、私にも親父のいうことが分かるような気がするんだ。

その是非はともかく、ある意味では、それもまた通り一遍の道理や、世間体にとらわれない、自分に正直な、人として誠実な生き方ではないかと思ってね。あ、いやいや、無論、だからといって、きみに親父の真似をしろといってるわけじゃない。第一きみは、妻子のあった親父とちがい、ふしだらな真似をするわけではないからね。

ただ、ハムレットじゃないが、世間の常識をとるか、はたまた誠実な生き方をとるかという問題だと思うが、そういう意味でも、きみも、一度は良子に会っていったほうが、親父ではないが、心おきなく、いや、項羽のような悔いを残さず事に臨むことができるのじゃないかと思うのだが。

たとえば出征が急遽決定された将兵が、祝言(しゅうげん)の予定を繰り上げて戦地へ赴くというのは、そうした意味合いからも、今では慣習になっていることでもあるしね……。

それに、素朴な人情論としても、良子の身になって考えれば、きみが突然、手の届かないところへ風のように去っていってしまったら、その悲しみは歳月が癒してくれても、心にあいた空洞は生涯埋めることはできないだろう。

さらにいえば、きみが今夜こうして訪ねて来て、今回のチャップリンの件を打ち明けてくれなかったら、私はきみを恨むよりも、きみと私の仲が、その程度のものでしかなかったのかと、どれほど寂しい思いをするか、多分その寂しさは生涯忘れることはできないと思うが、そのへんのところは、きみにも理解できると思うが……どうかな?」

「ええ ご尤もです……ですが、お会いすれば何も話さないというわけにいきませんし、といって急遽出征することになったなどと、その場しのぎの嘘でごまかすようなことは、良子さんを二重に裏切ることになってしまいますので、やはりお会いしないほうが、いえ、むしろ、そのほうが誠実ではないかと思いますが……」

と、田島の口は、しどろもどろになっていた。

が、山内大尉は、さも愉快そうに笑っていった。

「何をいうんだ。これから一国の総理大臣から一家庭の主婦まで、日本中の、いや世界中の人間を欺こうというきみが、その程度のことで尻込みしていてどうする。さっきもいったように、『英雄人を欺く』だ。しかも、十六日決行ということであれば、これは、さっきのきみのセリフではないが、今はそんなことで悩んでいる秋(とき)でもないしな。

むん! 明日は日曜日というのも天の配剤(はいざい)、ザ・スーナー・ザ・ベターというし、善は急げだ……明日は、何か予定があるのかな?」

「はあ……明日は、古賀くんや三上くんらと最終的な打ち合わせをすることに……それで、今日帰ってきたのですが。といいましても、会うのは夕方ですが」

「そうか。では午前中ならいいね……それじゃあ、良子には、私から電話をしておくが、待ち合わせの場所は、何処がいいかな?」

「あ、いえ、そんなことは、突然訊かれましても……」

「そうだ、帝国ホテルはどうかな。じつは私もそこで家内と見合いをしたんだが、あそこのロビーなら落ち着いて話もできるし、どうかな、明朝九時ごろでは? その時刻になれば、人の出入りも一段落しているだろうし、そういうことでどうかな?」

「はあ、あ、いえ、急にそんなことをいわれましても……」

と田島が額に汗をにじませ、しどろもどろになっている時だった。いきなり、ドアが砲撃されたようにノックされ、

「栗原少尉であります!」

と、その砲撃にも負けない、ちょっとお道化たようなドラ声が、ドアを突き抜けてきた。山内大尉が、そっちへ目を走らせて訊いた。

「彼は知ってるのかな、きみが帰ったことを?」

さっき、将校室へ挨拶にいったときには、彼の姿は見えなかった。

「いえ、まだ知らないと思いますが、構いません……『敵を欺かんと欲すれば』といいますので」

と、田島は苦笑した。

「そうだな。その意味では、早期決行派ナンバーワンの、彼は適役だな」

と大尉も笑い、ドアに向かって低いながらも鋭い声でいった。

「よっし、入れ!」

「栗原少尉、入りまっす!」

喚くような声と同時にドアが開いた。

「あれっ! ひょっとすると田島中尉殿ではないですか……」

と、栗原はドアを閉めるのも忘れて飛びつくようにいった。入室のために脱いで小脇に挟んでいた軍帽も、あやうく落とすところだった。いかにも急進派の最先鋒、栗原少尉らしい予定調和の驚き方で、田島の頰も緩んだ。

「そんな、絵に描いたような驚き方をするほどのことではないだろう。きみとは、たしか三月の会合で会ったばかりじゃないか」

「は。ですが、中尉殿は満州に行かれたはずでは……」

「それが体調をくずしてしまってね。それで大事をとって、ひと足先に帰ってきたんだ」

「そうでありますか。それはいけませんね。向こうは衛生状態がよくないと聞いてますし、極寒の地だというのに、虱(しらみ)が媒介する脳髄膜炎(のうずいまくえん)とかチフスなんて性質(たち)の悪い伝染病が、慢性的に蔓延(まんえん)していますからね。ですが、予防注射はされていかれたんではないですか?」

「ああ、でもそんな性質の悪い伝染病ではなかったらしい。富士山を見て、大尉殿のコーヒーを頂いたら、すっかりよくなったよ」

「そうですか。たしかに大尉殿のコーヒーは、銀座のカフェにも引けをとりませんからね。
酒保(しゅほ)(売店)で売ってるような、壜(びん)詰めのミルクコーヒーとは月とスッポン、酒なら《灘(なだ)》の生一本(きいっぽん)と、お子様用の甘酒の違いといったところですからね」
と、ここにきて栗原も、打ち解けた何時もの調子にもどっていた。

「お子様用の甘酒というのは、少々褒めすぎじゃないのか」

と、山内大尉が笑った。

「そうですね。いや、ちょっと口が滑りました……それにしても、酒保にはどうしてあんな子供騙しの、あ、いえ、あんな代物(しろもの)しか置いてないんでしょうかねえ」

と栗原は、山内大尉に真面目くさった顔を向けた。

「まあ、あれもそうバカにしたもんじゃないさ。あれはあれで、兵士たちの滋養強壮にも配慮して置いてあるんだ。その点、私のコーヒーなんか、喉ごしの味と香りを愉しむだけのもので、頭と気分を、ちょっとスッキリさせてくれるぐらいの効能しかないんだ」

「は、そうでありますか。滋養強壮のためですか、なるほど。それでは、これからは兵たちに、大いに飲むよう奨励しましょう……ところで中尉殿。伝染病でなかったとすれば、体調をくずされた理由は何でありますか?」

と、栗原は田島に目をもどし、ニヤリと笑った。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『泣いてチャップリン』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。