夫人は終始申しわけなさそうな表情だった。まるで最後の望みを僕に託しているような心持ちがした。最後に僕が、

「あの、一応、彩さんに挨拶しておきたいんですが」

すると、夫人は、

「そうですね、申しわけありません。いま、部屋にいますので、どうぞこちらに」

森田さんを居間に残したまま、僕だけを二階の部屋に案内してくれた。夫人はドアをノックしながら、少し遠慮がちに話しかける。

「彩ちゃん、入るわよ。家庭教師の先生がいらしているから」

なかからは何の返事もなかった。夫人がドアを開けて二人でなかに入ると、彩さんは片手にスマホを持ったまま、ちらっと僕の姿を見た。すこし緊張した表情を見せた。でも、何も言わずまたスマホに眼を移してゲームを続けた。

「彩ちゃん、家庭教師の先生よ。ご挨拶したら?」

すぐに反応はなかったが、ちらっと僕を見て、軽く頭を下げた。

「明日から先生に来ていただくのよ。がんばってね。いまの成績ではどこの高校も行けないのよ」

彩さんは、無言だった。この間(かん)、僕は平静を装っていたが、内心は穏やかではなかった。

明日から難しそうな内面を心に抱えた、この病み系の女子とどう向き合って行けばいいのか。どんな会話をすればよいのか。どんな授業をすればよいのか。

まったく見当が付かず、僕は路頭に迷う異人のようだった。その場に相応(ふさわ)しい言葉が見つからないまま僕は、

「それじゃ、明日からよろしくね」

とおざなりな挨拶をした。彩さんはもちろん無言だった。居間に戻ると、森田さんが、

「どうだった? うまくやれそうかね」

と心配した。僕が返事に窮していると、大塚夫人が、

「松本さん、ごめんなさい。彩は誰に対してもあんな感じなのよ。気を悪くなさらないでね」

と僕を援護した。

「いいえ、大丈夫ですよ! 何とかがんばります」

僕は空(から)元気に返事した。森田さんは暗い表情の夫人に、

「環境が変われば、彩さんも変わりますよ」

と励ましたが、夫人は愛想笑いをするばかりだった。その場の空気は晴れやかではなかった。

僕は相変わらず、彩さんとの授業に自信を持てなかった。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『心の闇に灯りを点せ~不思議な少女の物語~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。