嘉仁親王韓国訪問は、明治40年10月と神無月(出雲大社では神在月)であり、韓国皇帝と京城にて会談されたのが17日ですから、きちんと、出雲大社にとって重要な日付けを選んでいるのがわかります。

すでにこの予定が組まれていたのでしょうから、先んじて、同じ明治40年(1907年)の5月に、鳥取・島根の嘉仁親王による出雲大社参詣を含む山陰行啓が組まれていたのです。

日本の一大方針に沿って、朝鮮半島に住む出雲族に会いに行く。

この成否は、今後の国の外交や安全保障政策にも重大な影響を与えるのですから、その前に、朝鮮半島の出雲族にも関係が深い出雲の神であり国津神の大国主命のもとに、日本(大和)の神であり、天津神の天照大御神の子孫である明治天皇の代理として嘉仁親王が参拝されたのです。

この山陰行啓後に行われた渡韓だけが、明治天皇が許された唯一の嘉仁親王の外国訪問だったことをしても、いかに重要視されていたかがわかります。

このように、明治天皇在位中から別れた神(天照大御神と須佐之男命)の一族が再び元の関係に戻り、日本海を挟み、島国の日本と大陸側の韓国両国が、手を取り合って国難を取り除くという「内鮮一体」へ向けた準備は、水面下で行われていたのです。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『受け継がれし日韓史の真実 ─朝鮮引揚者の記録と記憶』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。