ひとり旅

気楽で気ままなひとり旅ほど、私にしっくりくるものはないかもしれません。特に登山ではそうで、かなり親しい友人が一緒であっても、気兼ねして写真を撮るのを遠慮、逡巡するなど、好もしくない状況に追いこまれることがあります。

登山の場合に単独行のリスクを考えるならば、特に私のような高年になれば尚更のこと、単独での行動は避けるべきなのかもしれません。ただ、ハードな山になればなるほど、下手なパートナーを連れて行くわけにもいきません。途中で体調を崩したり、ケガをしたり、私の意志や欲求に反して下山を余儀なくされては困りものだからです。

例えば妻と一緒に山にでかける場合、妻が登山において極めて足手まといであるという決定的なリスク、負荷である反面、費用は私が持たなくていいという歓迎すべきルールが存在します。私が計画し、案内・解説などし、時には手を引くなど手助けまでする。

まあ、ガイド料みたいなものです。

こうしてみると夫婦とはある意味では不思議――もしくは珍妙・奇妙――なもので、長いこと一緒に暮らしていると、愛情はなくても愛着が生まれてくるものです。気兼ねなく写真も撮れるし、空気のような存在になっています。仮に、仮にの話ですが、若い愛人でもできたとして、デートするにも旅に出るにしても、誰かに見られているかもしれないと思うと落ち着かない気がします。おちおち歩くことも、食事をすることもできないかもしれない。それが妻だったら、全くの平常心でいられるのです。この安心感は大きく、旅に集中できることにもなります。

多少話が逸れましたが、年間20~30回の旅の中で、ひとり旅の割合は8~9割程度になるでしょうか。どんなに少なく見積もっても、7割を下回ることはなさそうです。妻には分不相応な無理な山歩きも少なくないし、それは体力面のみならず、経済面、日程面など、多岐に亘る理由によっています。しかしながら、どうしても妻と一緒がいい、そうありたいというのであれば、これほどまでにひとり旅をしたりはしません。日常生活の上でも、私はたいがいのことはひとりでこなせるし、ひとりで何かすることや過ごすことを苦にしません。

私の登山形態は大まかにいえば平日派であるのも、可能な限り人の少ない山を歩きたいからです。ただ歩くだけがいいなら街でもいいわけだし、私は山に行ってまで人にまみれたくありません。渋滞でろくに景色を見られず、写真も撮れないようなら、何をしに行ったのか意味を見出せなくなってしまいます。

体調によってマイ・ペースで歩けるし、不調なのに無理することもなく、時には――それがルール、マナー上好もしいかどうかは別として――気まぐれで回り道や計画外のコース取りも許されます。そして何より、思うがままに自然と向き合い――キザなようですが――対話さえできるような気もします。