精神統一

よく「精神を統一する」と表現する。これは「精神を集中する」ことよりも特別なことであり、実行はむずかしい。

精神とは、複数のものだろうか、それとも単数なのだろうか。

精神は見えず明確な答えはないが、「精神を統一する」とは複数として扱っていることになる。「精神を集中する」も、人口の集中、問題の集中など、複数の散らばっているものが、一箇所に集まるイメージがある。

それでは「精神」とは、何のことだろうか。個人の精神もあり、団体における精神もあり、芸術世界での精神もある。精神統一といえば、個人の内面的な働きを意味するが、精神統一をした結果、単なる一個人の体験以上の成果が得られることもある。

神がかりに近いことを達成できることもある。競技会では、精神を集中するのがうまい人、精神統一のできる人が高得点を得られやすい。得点はどの競技にも共通して、「精神のコントロールの上手な人順に並んでいる」と言ってもいいだろう。

その日の体調、環境も多少影響するが、いちばん影響するのは精神のあり方だ。体が不調でも精神のコントロールが上手な人は、マイナス要因を克服できる。

たとえば、オリンピックは、もともと個人の精神と深く関わっている競技大会である。その起源を思い出してみれば、異論はないと思う。

「勝ち負けを争うのではなく、参加することに意義がある」とは、かのクーベルタン男爵の言葉だ。この言葉の是非はともかく、負けた人でも精神を十分に集中し、統一できた人は、悔し涙に暮れることはないだろう。

「精一杯やりきった」という満足感を持てるはずだ。精神統一は、個人の力量であると同時に、外的要因に左右されることもある。雑念を打ち消そうとしても、邪魔しにやってくる。

内部の邪魔より、かえって外部からの邪魔の方が多いかもしれない。自分の中の精神力は、限られている。個人の精神は、外の精神(神・最高の存在)に繋がることができる。外の精神に身を委ね、力を抜くことで、良い結果が生まれる。

競技者の中には、胸の前で十字架を描く、または気持ちの切り替えのために特別な所作を行う人もいる。外にある精神(神・最高の存在)は人を助け、可能性を大きく広げる。

「精神の自由」という表現があるように、精神は自由な存在だ。自分の中だけの自由ではない。外へ飛び出し、自由に行動できる。

競技者でなくとも、将来は自分の内なる精神が、外に繋がった精神(神・最高の存在)にコントロールされることで、精神の自由を体験できるだろう。

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『眼(あい) 天使が語った道しるべ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。