彼の心は十年前にさかのぼって、ドルチョル地区にあった小さな少しじめじめとした平屋の家のことを思い起こしていた。そこでは、対敵諜報機関のための建物が建設完成されるまでの間、当機関が暫定的に配置されていた。

その時、若き日の大佐(当時は大尉)と、大尉付きの高級副官スミリィコ・ライェヴァツがいた。ライェヴァツはムラデノヴァツ出身で四十二歳、そののち一九一二年に最前線にいて、ブルガリアとの短い戦闘の際に命を落とすことになる。

それは、一九〇九年二月の暗い日のことであった。生気に満ちて健康そのもののスミリィコが、伍長の肩章の付いている清潔で入念にアイロンの掛かった制服姿でディミトリイェヴィチの小部屋をノックし、かかとを鳴らしてから、凛として告げた。

「大尉、ターサ・ミレンコヴィチ様が面会を望んでおられます」

ディミトリイェヴィチは、新聞ニュース担当の事務官たちが今朝持ってきた書類から興味深げに視線を上げた。ターサ・ミレンコヴィチは名のある警察トップであり、在任中に業務の改革革新を実施した。

国への貢献に対して王の裁量で報いた。王には、無駄話をする時間などなかったのだ。そのミレンコヴィチが話に来たならそれは間違いなく極めて重大なことだろう、とディミトリイェヴィチが察した。

「通してよい、スミリィコ」

ディミトリイェヴィチが副官に言う。副官は、再びかかとを鳴らし、振り向いてドアを開ける。ターサはすばやい足取りで部屋の中に入り、テーブルに近づき大尉の大きな掌を握り締める。

まだ着ていた重いコートに付着していた雪は部屋の隅にある暖炉の熱気で急速に溶けていった。毛皮帽はポケットにつっこまれ、軍靴は湿って泥まみれになっていた。

「ごきげんよう、大尉」

年長のターサがディミトリイェヴィチに言う。

「床を汚してすまない。こういう天気でね」

ディミトリイェヴィチは、まあまあと手を振ってターサの言葉をさえぎり、窓際にあるふたつの肘付きチェアが備わった小さな丸テーブルへと誘った。そこだと居心地よく会話ができるからだ。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『私たちはみんなテスラの子供 前編』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。