だが華は、この髪を乾かす時間が好きだ。濡れた髪の自分と、乾かした後の髪の自分は、少しだけ違っているような気がする。ほんの少しだが、新しく生まれ変わったような気分になる。

たっぷりと時間をかけて髪を乾かした後、部屋に戻り、机の一番上の引き出しを開けた。文房具やら子供の頃に集めていたシールやらが無造作につっこまれている上に、クレジットカードが一枚ある。それを華はポケットに入れる。

入れた後、いつもするように、ポケットの上から四角いプラスチックの感触を確かめる。華は財布を持たない。買いだしに行くときはカード一枚だけ持って、手ぶらで外に出る。

引きこもってからというもの、現金で買い物をしなくなった。カードは、専門学校に入ったときに父がくれた。学校に通っていたときは、必要があれば銀行から金をおろしていたが、面倒臭くなってそういうことはやめたのだ。

マフラーをぐるぐる巻きにして、部屋を出る。玄関で靴を履いているときに、物音がした。反射的に華は壁にかかっている時計を見る。十一時二十四分。平日なのに、こんな時間に父が家にいるのは珍しい。

赤いスニーカーを履いて、華は外に出る。外に出ると、少しだけ身が縮こまって皮膚の表面がきゅっと固くなるような気がする。おそらく戦闘態勢に入るからだろう。

外は、安全な部屋の中とは違う。いろいろな人がいるし、見慣れないものがある。何が起こるかも分からない。華は人の目が怖い。視線恐怖症というやつかもしれない。

人に見られていると思うと、たちまち嫌な動悸を感じる。だから外を歩くときは、極力うつむいて歩く。

人とすれ違うときは、亀のようにマフラーの中に顔をうずめるようにしている。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『空虚成分』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。