一時間ほどすると、娘たちは帰って行った。会話への参加の機会は少なかったものの、杉井にとっても楽しい一時間だった。男だけの殺伐とした連隊での生活の中で、時にはこんなこともあって良いのだろうと杉井は思った。

次の日曜日、部屋でたえへの手紙を書いていると、廊下から助手の水原上等兵の、「杉井、面会人だ」という声がした。誰だろうと思いながら面会所をのぞくと、三人娘のうち杉井の向かいにいた女性が一人で慎ましく座っていた。意外な来訪者に驚くと同時に、杉井は素直な喜びを感じた。

「今日は一人で来ました。ご迷惑だったでしょうか」

相手が立ち上がろうとするのを制して、杉井は、

「いえ。そんなことはありません。日曜日はいつも退屈にしていますから」

と言いながら、向かい側の椅子に腰を下ろした。その瞬間、自分の発言は相手の訪問が良い退屈凌ぎになるという意味に取られたのではないかと思い、杉井は、つくづく自分はこの種の咄嗟の対応が不得手であると痛感した。

「ところで、先日聞き忘れましたが、横内さんは下のお名前は何というのですか」

「多恵子といいます」

「そうですか。偶然ですが、私の母はたえといいます。ひらがなのたえですが、横内さんはどのような字を書くのですか」

「多くの恵みの多恵子です。父は、私が生まれて家にたくさんのお恵みがあればと思ってつけたそうです。どうも期待はずれだったようですが。杉井さんは?」

「私は謙一といいます。謙譲の美徳の謙という字をあてます。私の場合は父が謙造でその長男というだけで、それ以上何の意味もないと思いますが」

「うふふ。でもとっても良いお名前ですね」

そう言って、多恵子はにっこり笑った。多恵子は、前回同様、折り目のついた着物をきちんと着ていた。肌は小麦色で健康的であり、長い黒髪を後ろに束ねて美しく結い上げていた。女性と二人きりで話をする局面など幼なじみの佐知子以外経験のなかった杉井は、抗し難い緊張感を覚えながら、苦し紛れに極めて基本的な質問をした。

※本記事は、2019年1月刊行の書籍『地平線に─日中戦争の現実─』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。