彼女たちの主張するところは、歌劇部を新設する時、女優は歌劇部と一切係わりないと発表したにもかかわらず、今回の歌劇に加え、なかんずく環を主役にしたのは承服できないというものである。一期生の森律子とて二十歳を出たばかりの年頃であり、「女優が一廉の積りで苦情をいうのも片腹痛い」と記者が書き添えるあたり、女優台頭期の社会観を垣間見ることができる。

《胡蝶の舞》は松居松葉の台本にウェルクマイスターが作曲した一幕物で、陽が昇り春の女神が立ち地上に親子の蝶が舞い遊ぶ、風雨となって女神は親子に別れの時がきたことを告げ、雄蝶、雌蝶は昇天するという筋書になっている。

上演前のひと騒動があったものの《胡蝶の舞》は予定通り行われた。初日の翌日、新聞はその景況として、「未明の空に暁を破れば、ここに爛漫と咲ける桜花に搦みて、環女史の春の女神を始め、二十名近き女優の胡蝶が唄いながら翩々と舞う有様は美しとも美しく」と伝えている。(16)

一方日本での最初の歌劇がああ言うものなら歌劇の将来について大いに考えなくてはなるまいとして次のように芸評するものもあった。「柴田環の春の女神、独唱は確かに好いものでしょうが、私にはこの前の金襖の前で、何等の扮粧をせず、ケバケバしい背景を使はないで、独唱されるのを聞いた時の方が印象が強かった。何だか水揚人足の木遣音頭を聞いて居るやうな感じがした。雄蝶、雌蝶の踊りも萬踊りのやうであった。時々電気の光線が、見当を外れて天井の一文字に写るなど、少なからず感興を破られた」(17)
 

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。