近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

帝劇時代―:胡蝶の舞

帝劇は会社発足当時から舞台芸術の大殿堂たらんとして、番組の創造と自主運営の方針を推進し、結果的に付属技芸学校による女優の養成、歌劇部による男女オペラシンガーの養成と舞台演出、付属洋楽部から発展した管絃楽部による付帯音楽をはじめとした作品演奏等、明治末期の数年間に、舞台の西欧化を成しとげた。

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これらの息吹きは同時代の舞台芸術を目ざす若者に曙光をもたらせただけでなく、帝劇所属の女優をはじめ、各種の舞台専門家に芸術としての誇りを自覚させた。

東京音楽学校で《オルフォイス》上演に参加した鈴木乃婦子は柴田環の一級下であったが環より先に帝劇付属技芸学校の声楽教師として就任し実績をあげていた。

彼女は品行を旨とする女優養成の当事者として、操行上とかく世評のある環が優遇されて迎えられるのは耐えがたいとして辞表を提出している。ちなみに環は名誉給百円、一回の演奏科二十円その他に授業給もあるという破格の条件であった。(14)

続いて今度は女優たちから環への不満が噴出した。(15)十月興行に帝劇初の創作歌劇を演ずることとなるがその主役を環が占め、付属技芸学校出身の女優たちは端役を割当てられたのがその原因であった。

環女史の麾下に立ちて事を成すは、帝国女優自らを侮るものにして、妾等その任に当る者の忍ぶあたわざる所なるを以て、劇界のためこの際妾等の立脚地を決せられん事を涃願す 云々

といった陳情書を森律子、初瀨浪子、河村菊枝以下二十三名が連署して、九月十一日西野専務を通じて渋沢社長に提出し、若し聞き届けられなければ十月興行には出演しないという強硬なものであった。