無宗教の私がいうのも何ですが、それこそ墓などなくても何処でも手を合わすことができ、父を思うことができるのです。全ての場所が、父の墓であるわけです。父が亡くなっても、遺骨がある限りは、何とはなしでも一緒にいるような気になれます。ともに山を歩き、同じ風景を見ているような、そんな感覚に浸ることができます。孫の結婚式に同行させてやれることも――出国・入国時のチェックにひょっとしたら引っかかるかとも思いましたが、意外にスンナリで――私なりの親孝行だったかもしれません。こうした行為を、いい供養になるという人もいれば、けしからんことだと非難する人もいるでしょう。

けれども、私にとっては命がけの法要みたいなものです。こうすることで逆に父が怒り、私にも早いお迎えがくるかもしれない、そう考えなくもありませんでした。実際、ある山で父の遺骨を撒いた時には、その後天候が急変し、雷と雹(ひょう)に急襲されて遭難や死を意識させられる事態となりました。

それでもいずれにしてもいつかは死ぬ運命だし、それが早いか遅いかの問題で、父に呼ばれたとしても仕方がないという思いもなくはありません。もう50を過ぎたからこそそんな風に開き直れるのかもしれませんが、反対にこの年になったからこそ悔いを残したくないとも思います。厳密にいえば違法な行為かもしれませんが、骨をそのままの形状で散骨するのでもなく、粉状ですから人目につくことも、後々発見されることもまずあり得ません。

その意味では他者に迷惑をかけることも不快な思いを与えずにも済みますし、その辺の配慮を欠かないよう自分なりに心しているつもりです。私自身は墓に入りたいとは思わないし、理想はインドなどで見られる鳥葬です。日本ではそれは不可能ですが、ならば父のように散骨してもらいたい。私はすでに書いた遺書に、そう記してあります。葬式もしないでいいし、墓や戒名や、そうした宗教的な儀式やしきたりは不要です。そのようなものに金をかけるくらいなら、残された者達には何か美味いものでも食べてもらいたいし、無用な出費は私の本意とはしません。

父の遺骨や魂は、拡散して世界中に行き渡っているかもしれません。私のそばに還るどころか、その可能性の方が高いのかもしれません。そうあってくれればいいが、願い通りにならなくても、それはそれで仕方ありません。やはり最も強く想うのは、父の場合は体の一部でしたが、私の場合には「全て土に還る」という理想(ありかた)です。

自然界の中で生き、生かされてきて、それが私にしてみれば最も自然なありようです。今父は、自然界の完璧なリサイクルのシステムに乗り、風や水の流れに沿った旅路にあるのではないでしょうか。永遠ではないにしろ、限りなく長く気の遠くなるような旅路です。私も同じように、いずれはそうした経路を辿れるなら本望です。

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『旅のかたち 彩りの日本巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。