いかんともしがたい力が、洋一を突き動かしていた。まるで男が強力な磁石で、洋一はどうしようもなくそれに引き寄せられてしまう砂鉄みたいだった。

駅の構内にある焼鳥屋の前で、男は突然足を止めた。洋一も慌ててスピードを落とす。男はモツ煮込みを一袋買った。店員と顔馴染みなのか、軽く雑談を交わしている。男の横顔に笑みが浮かんでいる。人の良さそうな笑みだ。笑うと印象がかなり変わる。とても悪人には見えない。

「毎度ありがとうございます」

店員の声が洋一のところまで聞こえてきた。よくここで買っているらしい。再び雑踏をぬって男が歩き始めた。先ほどにも増して軽快な歩みである。

男は京王線の改札を通った。洋一も続いて改札を通る。洋一の最寄り駅は小田急線の経堂だ。違う線に乗ることに、不思議となんの抵抗も感じなかった。抵抗を感じるどころか、ごく自然なことのようにさえ思えてくる。

京王線の駅のホームを歩いていると、自分は一体何をしているんだろう?という思いが再び湧きあがってきた。だが、今更止めることはできない。こうなったら、最後まで男の後をついていくしかない。

ホームに立っている男を、洋一は少し離れた場所で見つめた。どういうわけか、他の人とは違って見える。存在感に厚みがあるというか、まるで切り取って重ねて置いたように、男だけが群衆の中で浮きあがって見える。

橋本行きの電車がホームに滑り込んできた。男が電車に乗るのを確認した後、隣のドアから乗る。後からドドドッと学生の団体が乗り込んできて、車内はいきなり寿司詰め状態になった。

男の姿が見えなくなる。洋一は焦って爪先立ちをした。なんとか黒いコートの端っこを視界に捉える。三駅目で学生達が降り、車内のスペースが一気に増えた。

洋一はホッと息をついた。もうこれで男を見失うこともない。男は七駅目で降りた。桜上水という駅だ。洋一はこの駅で降りたことは一度もない。

男は慣れた感じで改札を通ると、再び軽快に歩き始めた。駅前の明るい商店街を過ぎ、横道に入る。すると嘘のように静かな住宅街になった。ぽつぽつと等間隔に街灯のともる暗い通りが伸びている。

男の他に、道を歩いている人はいなかった。もちろん車も通らない。洋一は充分な間隔をあけて、後をつけた。街灯の下に来たときだけ男の姿が浮かびあがり、それを過ぎるとまたスッと闇に溶け込む。それを幾度か繰り返し、ついに男はある家の門の中に入っていた。

男がカバンから鍵を取りだしている音が、数メートル離れた場所に立っている洋一の耳にまで入ってくる。やがて鍵を回す音の後、扉を開ける音がした。夜の静けさの中、ガッチャンと重そうな扉の閉まる音が響いた。

カチャリと中から鍵がかけられる音を最後に、周囲は再び完璧な静寂の中に沈んだ。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『空虚成分』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。