南禅寺を出ると、太陽を背にして歩いた。アスファルトに落ちる自分の影を追うように歩いた。向かうべきところはなく、目の前の道をただ歩いた。歩いてさえいれば立ち止まらずにすむ。その理由だけでぼくは歩いていく。

哲学の道の途中にひっそりとたたずむ洋館風の喫茶店を見つけて扉を押す。

客はなく、時が止まったような静けさだけが店の空気を占めていた。窓際のテーブル席に座ると、外には小さなテラスと夏草の繁った中庭があり、上空には白い雲が絵の具のように貼り付いていた。

「暑いでしょ、外は」

にこやかに水とおしぼりを運んできたのは白髪をきれいになでつけた執事然とした主人だった。

「今日は平日であまり客も来ませんから、どうぞ好きなだけ休んでいってくださいな」

そういう気遣いを見せる主人に頭を下げ、メニューのなかからオレンジジュースを注文した。

テーブルの上にノートを開くと、窓からの日射しの下でそれは一瞬真っ白になり、その刹那、すべてが無に帰したようなめまいをおぼえた。ここはどこで、自分はだれで、そもそもどうしてぼくはここにこうしているのだろうか。たしかなものがぼくの手から離れ、目に映るもののすべての輪郭は消失し、夢ともうつつともつかぬ薄明のあわいをぼくの意識はたゆたいつづけているかのようだ。

でも――。

それも長くはつづかないのだ。頭の底にぬぐいがたく居座る疼きがぼくを現実に引き戻し、現実をぼくに突き付けるから。どうして典子を別居させたのか。その問いから自由になることをぼくは許されていなかった。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『シンフォニー』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。