我々人間界には絶えることのない争いが存在しています。争いが生じる主な根源には、1.人種・民族の差別、2.宗教の存在、そして3.主権国家の存在、の三大根源があります。これらがなぜ争いを創造するのか、そしてどうすれば人間界から争いを追放することができるのかについて思いをめぐらします。

科学の厄災化

⑧ 悪魔の支配下にある世界から人類は自らを解放すべし

このように考え来たりますと、はっきりと良くわかることがあります。

それは、この核という悪魔を退治するためには神や宗教に頼ったり縋ったりしても何の役にも立たないということです。つまり、この悪魔を退治できるものは唯一我々人間を措いてほかにはないという認識です。

我々人類はつい最近まで、何を考えることもなく天真爛漫のままに自由でした。なぜなら、我々が何をしても地球自然環境の自浄作用を越えるようなことにはならず、我々が自らを滅亡させるということを考える必要などなかったからです。

この天真爛漫の自由を終結させたもの、それは科学技術の発達です。産業革命が始まり、特に20世紀に入ってから科学は人類に実生活の利便と幸福をもたらした反面、自然環境に対してはその自浄作用を越える公害をもたらしています。さらに科学はその扱いを一歩間違えば人類に決定的な厄災となり、延いては人類の滅亡をもたらすこと迄あることが今は人類共通の認識となっています。

このように、科学の発達により人類は昔のままで無条件にそして天真爛漫に自由でいることはできなくなりましたが、自由が全く失われてしまったわけではありません。

なぜなら、自然環境も科学の危うさも人類がそれをきちんと管理しさえすれば、その中で人類はやはり自由でいることはできると考えられるからです。然るに、この管理ができたとしても、忘れてならないことは核すなわち悪魔の存在です。

この悪魔が人間界に居座る限りにおいては、この管理の成功など悪魔の袖の一振りで無意味になります。人類そのものが絶滅・消滅するからです。

哲学者は“自由はあるのかないのか”ということを考えることがあるようですが、そのようなことを考える必要はありません。自由とは、“あると思えばある、ないと思えばない”もので、その「あるなし」も「内容」も(一人一人の)人間が決めて然るべきものと言っても良いものです。

然るに、これはやはり人類が支配する正気の世界においてこそ成立する考え方であって、今現在のように、悪魔に支配されている狂気の世界においては人類の真の幸福も自由も「ある」とは言えません。

なぜなら、人類は知的生命体としての自覚も矜持も見失っており、世界は核という悪魔を原点に据えた論理で動き、さらにいつ何時悪魔がこの世を終わらせるかもしれない憂いの中にあるからです。

筆者はこの悪魔退治ができていない現状を思う時、“どうしてこんな単純なことができないのか”という憤りと情けなさのため、切歯扼腕し地団駄を踏み叫び出したい衝動にかられ、その後絶望感や虚脱感に襲われ、終には“人類がこれほどまでに愚かな生命体であるのであれば、悪魔に絶滅されてもそれは自業自得であり分相応にして仕方もないか”という思いに苛まれます。

しかし、筆者は諦めてはおりません。世界的な政治家であろうと誰であろうと、特に夜中に目覚め一人静かにこの問題に向き合う時、この悪魔に支配されている現状を是とする一人の人間も存在しないものと確信できます。すなわち、核という悪魔を人間界から排除・駆逐することは人類の総意の筈です。