吉良家の処分

浪士らが切腹した二月四日には、吉良家当主吉良左兵衛義周が評定所に召喚されている。

旧臘十四日、浅野内匠家来共押込候節不埒成仕形、不届に被思召候。依之、領地被召上之、諏訪安芸守江御預被仰付之旨 仙石伯耆守達之

要約すると、昨年十二月十四日に赤穂浪士等が吉良邸に討ち入った際、当主吉良左兵衛の対応が良くなかったので、領地(三州・上州 四千二百石)を没収し左兵衛は信州高島城主諏訪安芸守にお預けとする厳しい処分が言い渡されている。

左兵衛によると、討入り当夜は自らも長刀を手に参戦したものの、二箇所斬られたうえ眼に血が入り、一時気を失い正気に戻った時にはすでに浪士らは屋敷を出た後だったと証言している。手当をした外科医栗崎道有の日記によると、左兵衛の傷は脇腹から背にかけて七寸の疵があり、あばらが少し切れ、額に三寸程度の疵が二、三カ所あったと記されており、左兵衛もそれ相応の働きをしたようではあるが、公儀には全く評価されずにその対応は不届きとされ、そのまま諏訪安芸守家来に引き渡された。この時、左兵衛十八歳。

同じ二月四日には、吉良家の処分に連座して、親戚筋である吉良左兵衛の実父米沢城主上杉綱憲及び綱憲の実子で左兵衛の実兄上杉民部大輔吉憲に対しても謹慎が言い渡されている。

二月十一日に、左兵衛は家臣(家老左右田孫兵衛重次と近習山吉新八宗房)二人の随行のみ許され、諏訪家の家臣百三十名に護られ江戸から信州高島(長野県諏訪市高島)へと護送されている。その後左兵衛は、諏訪湖の畔に建つ高島城南丸に幽閉されている。因みに、左兵衛に付き添った山吉新八は討入り当夜、吉良家家臣のなかでは一番の働きを見せた人物と評され、戦闘の結果脇差しなどは簓(ささら)の如く、また数カ所に大怪我を負いながらも生き延びた屈強の武士として伝わっている。

信州諏訪家では、不識庵(上杉謙信)以来の名家上杉家の子息左兵衛に敬意を払いつつも厳重に警護し、当初は健康状態も良好であったが、翌宝永元年(一七〇四)に実父上杉綱憲と養母梅嶺院(上野介室)が相次いでこの世を去ると、信州の厳しい環境のなかで病に臥すとさらに衰弱が進み、宝永三年(一七〇六)一月二十日に息を引き取っている。

享年二十一歳。ここに鎌倉時代から続く名門吉良家は第十八代義周をもって断絶している。

浅野家再興

宝永六年(一七〇九)一月十日に五代将軍徳川綱吉が薨去(こうきょ)し六代将軍徳川家宣が就任すると、二月三十日に将軍恩赦による大赦令が発令され、元禄赤穂事件に連座していた遺児への処分が全て取り消しとなり無罪放免となる。

広島浅野宗家にお預けの状態にあった浅野大学長広も八月二十日に赦免され、九月二十九日に広島から海路を経由し江戸に戻っている。翌宝永七年(一七一〇)六月二十八日には江戸城にて将軍に拝謁し、九月十六日に安房国(朝夷・平群)に新知五百石を拝領し旗本寄合に列せられている。旗本とは徳川幕府の家臣で殿様に準ずる格式で、大石らの念願であった大名家ではなかったものの、ここに旧赤穂浅野家は家格としては見事に再興を果たしている。

因みに、吉良家も享保十七年(一七三二)上野介の弟の孫義孚によって再興を果たしている。

第一章では、史実としての元禄赤穂事件の概要を、一級史料をもとに紹介させて頂いた。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。