「出雲の国譲り」

そののち、ほかの引揚げ者の方から、応仁の乱で乱れた京都から難を逃れ、地方に庇護を求めた貴族や学者を招いたことで、独自の文化を築いた戦国大名の今川義元と大内義隆の話をうかがう機会がありました。この両大名の所領に、当時までに古くから研究されていた古事記や日本書紀、風土記などが伝わったことで、明治時代からの対朝鮮半島政策の中心に「出雲の国譲り」が使われたとのことでした。

今川義元の配下の武将として教養を修め、豊臣秀吉の始めた朝鮮出兵を止め、朝鮮使節団を迎えたのが、江戸幕府を開いた徳川家康となります。

その徳川家の天下を、大政奉還(国譲り)したのが15代将軍徳川慶喜。この最後の将軍出身の水戸藩で生まれた、尊王思想の水戸学に影響を与えた、国学の祖である賀茂真淵を生んだ土地が、もとは今川家の所領であった遠江(静岡県)でした。

尊王攘夷運動で、遠江の神職の人たちが江戸に多く入ったあと、明治維新(天孫降臨)が行われ、都が京から江戸に移り、東京となりました。

そのまま、この地の神社の神職として務められ、多くの方が故郷に戻らず留まったそうです。その一つが、維新後建立された靖国神社でした。さらに、明治新政府で権勢をふるった旧長州藩(山口県)一帯は、毛利家以前は大内家の所領でした。大内義隆は自ら、その出自を朝鮮半島の一族と名乗り、交易の権利を持つ朝鮮商人を介して、明(中国)との貿易で財を成していました。そのため、京の都より自領に招いた貴族や、学者の欲しがる大陸の書籍を、貿易かたがた取り寄せていたこともあり、日本の古い伝承と大陸の伝承が伝わっていました。

明治維新以降に、西欧のキリスト教の布教を先兵とした植民地政策に対抗するため、一般国民に、それまでの「くに」を自分の藩のレベルから、日本列島という大きな国土の認識と、その日本の神は天皇であるという意識を持たせるべく、国家神道につくり替えられる前の、同じ古い伝承をもった、京都、山口、静岡一帯の有識者が、徳川家の築いた江戸(東京)に集まったことで、できあがった計画とのことでした。