切腹

年が明けた一月二十二日、老中からお預けの四十六人に親類書の提出が申し付けられ、浪士らへの切腹の沙汰が近いことを悟る。二月四日午前、「御預被置候浅野内匠家来、御仕置被仰出候付……」との老中連名の状による切腹が申し渡され、急遽四家では切腹の準備に取りかかる。

介錯人は全てお預かりの大名家がそれぞれ用立てる事になっていた。細川邸においては、「浅野内匠儀、勅使御馳走之御用仰せ付け置かれ、其の上時節柄殿中を憚らず不届の仕形に付き御仕置仰せ付けられ、吉良上野儀御構い無く差し置かれ候処、主人の仇を報い候と申し立て、内匠家来四十六人徒党致し、上野宅江押し込み、飛道具など持参、上野を討ち候始末公儀を恐れず候段重々不届に候、これに依り切腹申し付くる者也」との申渡しに対して大石は、「如何様にも仰せ付けられる可き処、切腹仰せ付けられ候段有難き仕合に存じ奉り候」とお請けしている。

大石主税らを預かった松平家では、とりわけ切腹の執行に慎重であった。というのも、お預かり人を一応切腹の座に出したうえで、その後に御赦免になるとの噂が流布されると、噂が本当であってほしいと期待した松平家ではぎりぎりまで切腹の時刻を引き延ばしていた。

ところが、公儀からの連絡がないまま申の中刻(午後四時頃)が過ぎると、とうとう延引を観念して切腹の儀式が始められた。四家全てで切腹の儀式を終えたのは七半時(午後五時頃)過ぎであった。

浪士らの亡骸については、細川邸に預けられていた冨森助右衛門が細川家の接伴係堀内伝右衛門に依頼していた泉岳寺の亡主浅野内匠頭の近くに埋葬してほしいとの願いが叶い、急遽浅野内匠頭の墓域横の竹藪が整備された。毛利邸で切腹した間新六を除く四十五人の遺骸が各大名家から泉岳寺へと運びこまれ、亥上刻(夜九時半頃)から丑の下刻(深夜三時頃)にかけて酬山和尚の引導によって送葬されている。

正しく殉死者と同じ扱いである。間新六の遺骸だけは泉岳寺に葬送される前に、姉婿である中堂又助が毛利家に願い出て引き取り築地本願寺に埋葬している。

大石らに切腹が申し渡された同じ日、遺児らにも切腹の連座が適用されている。

父共儀 主人の仇を報い候と申し立て、四十六人徒党致し、吉良上野介宅に押し込み、飛道具など持参、上野を討ち候始末、公儀を恐れざるの段、不届に付、切腹申し付く。これに依って伜ども遠島申し付くる者也     未(ひつじ)二月四日

二日後の二月六日には、江戸にいた遺児らが早速召喚され遠島の宣告を受けている。処罰の対象は十五歳以上の男子に限られており、十五歳未満の者は十五歳になってから刑が執行されることとなった。

但し、それまでに仏門に入っていれば十五歳になっても遠島の刑は免除される特別な措置が施された。この時、すでに十五歳を越えていた遺児四人が四月二十七日に霊岸島(中央区新川)から流罪舟に乗って伊豆大島に送られている。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。