①Aさん八七歳 優しき心の頑固じいさん

医者は人の話を聞かない……。

私が初めてAさんの診療に伺ったとき、Aさんの部屋はガンガンにエアコンがきいて、寒々としていました。その二階の小さな部屋で、寝ぐせのように、頭のてっぺんの髪がピンと立った、独特のヘアスタイルのAさんが私たちを迎えてくれました。

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エアコンの送風口には、自作の魚の絵を切り抜いた薄い紙が貼られ、エアコンの風でパタパタと魚の絵が泳いでいました。最初の訪問時からこの魚が気になっていたのですが、Aさんの口から次々に出てくる話に圧倒され、質問する機会を失ってしまいました。

このように私たちは、最初の訪問時からAさんに主導権を握られた形になってしまったのですが、意外にもこのことがAさんと私たちを結び付けてくれました。Aさんはうれしそうにこう語ってくれました。

「今までかかわってきた医者は人の話を聞かない奴ばかりだった。けれどあなた方は楽しそうに私の話を聞いてくれる……」

確かに殺人的な数の患者さんが押し寄せる病院では、Aさんの長い話を拝聴(はいちょう)するのは難しかろうことは容易(ようい)に想像できました。けれども腰を据えて聞いてみると、Aさんの話はほんとうに面白く、時間が経つのを忘れてしまいます。

総理大臣への批判から始まる政治の話が出たかと思うと、今度はいつも飲んでいる鶏がらスープの話が飛び出し、放っておくといつまでもしゃべっています。しかもこれらの話には、その背後にAさんらしい価値観や思想がキラリと光っていました。

そのうえ茶目っ気も忘れていません。その日の話の落ちは、部屋の電灯のスイッチに結ばれたヒモでした。Aさんはこのヒモを指さし、自慢げにこれは自分の発明だ……と言い、にっこり笑ってこう言うのです。

「それはヒモコン!!」

と。

必死に生きている鯉

「あの魚は何ですか?」。

何回目かの訪問時に、やっとエアコンの魚の絵のことを尋ねることができました。

「ああ、あれは鯉だ」

とAさん。近所の小さな水路に、何匹かの鯉がいるのだと……。

「こんな狭い場所でよくぞがんばって生きているな……」

とAさんは感心して、誰にもその場所が見つからないようにと祈りながら、そっと見守っていたそうです。

しかしある日、その場所は人に知られてしまいました。そしてその鯉を見つけた人は、「鯉を捕まえて食べる」と言ったそうです。これほど慎ましやかに懸命に生きている魚たちを食べてしまうなどと……。何と了見の狭いことか。何と懐の狭いことか。

昔の日本人はこんなじゃなかった。いつから日本人はこんな人種に堕落してしまったのか……。Aさんは大いに嘆きました。怒りました。

しかし結局、魚たちがどうなったかは語りませんでした。あのエアコンの魚の絵は、鯉たちに対するAさんの鎮魂旗だったのかもしれません。

私は、Aさんがどんな人間なのか少しわかったような気がしました。そして、ますますAさんの話が聞きたいと思いました。

老教授の最終講義

しかし、Aさんの話は、長くは聞けませんでした。Aさんの病状は確実に悪化していきました。口腔底がんから転移した左肺の腫瘍は容赦なくAさんの体力を奪い、私たちがAさんを訪問する頻度は増していきましたが、Aさんの話はだんだんと短くなりました。

私自身は診療に伺うというより、死の淵に立つ老教授の最期の講義を受けに通うといった感覚でした。やがてほぼ寝たきり状態となり、二階でひとり過ごすのは危険な状態となりました。

奥さんや息子さん夫婦が暮らす一階に下りて療養したらいかがですか……と幾度も勧めましたが、老教授は頑として聞き入れませんでした。最期まで自分のやりたいようにするという自己主張の強い方でしたので、ご家族も含め誰もが無理強いはしませんでした。

しかし、はからずもというか、私たちには都合がよいことに、二階のエアコンが突然故障したのです。魚たちはもう泳ぎませんでしたが、魚たちがAさんを家族のもとへ送り出したのかもしれません。

これを契機にAさんは一階の家族のもとで療養することとなりました。

けれども、このころから食事がしだいに摂れなくなり、呼吸苦が生じるようになりました。それでも私たちが帰るときは

「ありがとう」

と手を強く握ってくださいました。

大阪在住の三女さんが帰ってこられたころには、意識が混濁しはじめ、深夜まで看病したお嫁さんに代わって三女さんが徹夜で看病された日の朝に旅立たれました。