公儀へ自訴

本所から泉岳寺までは約十二粁の行程であるが、中間地点の新橋を過ぎた辺りで、不破数右衛門の進言により、大目付仙石伯耆守へ自訴するため大石は吉田忠左衛門と冨森助右衛門を本隊から外し愛宕下の仙石邸(港区虎ノ門)へ向かわせている。仙石邸に到着した吉田と冨森は、取り次ぎの者に昨夜来の内容を説明すると、登城前の仙石伯耆守が直々に応対され、今暁の次第をあらまし説明すると「上野介を討ち申し候哉」と尋ねられ、吉田は「慥たしかに御印を見申し候と覚え候申し候」と答えている。

吉田が懐中していた連判状「浅野内匠家来口上」を差し出すと伯耆守はその場で請け取り、聞き取りをとると「登城に候間、両人休息致し、衣服も心次第着直し候用に」と言い残し二人を労っている。仙石伯耆守は登城の途中、月番老中稲葉丹後守邸に立ち寄り、赤穂浪士らの対処について丹後守に相談してから登城している。

城内で仙石伯耆守からの報告を受けた幕閣の間では、赤穂浪士に対する感情は概ね好意的で、「御当代に至り、かかる忠節の士を出したる事、昭代(太平の世)のしるしと存ずる」と老中筆頭阿部豊後守が誉めると、居合わせた一同も同意する有様で、本来同僚であるはずの旗本が殺害されたにもかかわらず、浪士等の忠烈が彼らの心を動かしたと言える。仙石邸での吉田と冨森の両人は、用意された湯で足を洗うとそのまま座敷に通され料理を御馳走になっている。

本懐を遂げる

大石ら一行は、途中大名屋敷の前を通過する際、戦闘によって衣服に血の付いた出で立ちなどを不審がられ、何度か門番らに誰何されたがすんなりと通過している。一行が引揚げの途中に歓待を受けたとする逸話がいくつか存在しているが、そのほとんどが後年の創作である。

吉田と冨森の二人を除く一行が泉岳寺に到着したのは午前九時頃。全員が亡主の墓前に参集し、石塔の二段目に清められた上野介の首級が供えられると大石が祭文を読み上げ焼香する。

続けて一番槍の間十次郎が勧められ名乗りを上げて焼香し、残りの浪士等も次々と名乗りを上げ焼香した。その後、寺の案内で全員が衆寮に通され大石だけは客殿に上がり住職の酬山長恩和尚と対面している。

この頃、四十七士の中では最下級の足軽寺坂吉右衛門が泉岳寺から出ている。寺坂については第三章で詳しく扱うが、大石ら幹部から密命を帯びて一行から離れたとする密使説がある一方で、最後の最後になって自身の命惜しさから自ら欠け落ちたとする逃亡説を唱える学者も存在していたが、現時点における専門家の見解としては概ね密使説が有力である。

その件はさておき、泉岳寺が寺社奉行に此の度の一件を報告すべく一行の人数を確認すると、吉田と冨森を除く四十五人のはずが四十四人しかおらず、この時点で寺坂が掛け落ちたことが発覚するが、住職の酬山和尚はそのままお供を連れて急ぎ寺社奉行阿部飛騨守に赴き今朝からの経緯を届け出た。

午後になって公儀からの使者が泉岳寺に遣わされ大石にいろいろと審問している。公儀は四十七士の扱いに苦慮し、一旦は一行を直接大名四家にお預けすることにしたが、急遽仙石邸への出頭命令が下り泉岳寺の四十四人は午後八時頃に泉岳寺を離れ午後九時頃に愛宕下の仙石邸に到着する。この時仙石邸では異例ともいえるもてなしで対応し、四十四人に吉田と冨森の二人を加えた四十六人全員が書院に通されると仙石伯耆守が直接尋問にあたっている。

四家へのお預け

「浅野内匠家来口上」の連判にある連名の順番(序列)を考慮し、親子兄弟が重複しないように組み替え、四十七名を十七・十・十・十に分配し大名(細川・松平・毛利・水野)四家に割り振ったが、当初名前のあった寺坂がいないことから水野家は九名となっている。真夜中に大雨が降りしきる中、大名四家から赤穂浪士請け取りの使者が続々と仙石邸に到着する。

警護をかねた請け取りの使者は細川家八百七十五名、松平家二百八十六名、毛利家二百二十九名、水野家百五十名と急な招集であったにもかかわらず、総勢千五百人以上の使者が夜中に仙石邸周辺に集結したことになる。割り振られた浪士がそれぞれのお預かり先の屋敷に到着した時にはすでに深夜を過ぎていた。

大石内蔵助はじめ十七名を預かった高輪の細川家下屋敷では、丑の刻(午前二時)を過ぎていたにもかかわらず当主細川綱利が直接出迎えている。その頃、泉岳寺を一人あとにした寺坂は、すでに江戸を発ち十二月二十五日に京都の旧浅野家医師寺井玄渓宅を訪れたのち、十二月二十七日に家族らが待つ播州亀山(兵庫県姫路市飾磨区亀山)に到着している。

泉岳寺には赤穂浪士が持参した吉良上野介の首級が残されたが、十六日になって吉良家から上野介首級の返却の申し出があり、寺社奉行の阿部飛騨守が仲介し夕刻に泉岳寺酬山和尚によって二人(石獅・一吞)の僧が使僧として指名され、上野介の首級はそれまで納められていた箱をさらに包み棒に通して中間(ちゅうげん)に担がせ本所吉良邸へ届けている。この時に吉良家が発行した首請け取り状が現在泉岳寺に保管されている。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。