謙ちゃん、お元気ですか。

屈託のない佐知子らしい便りだと杉井は思った。入隊以来音沙汰なしであったが、佐知子の方に一応手紙を書く意思はあったこと、またこれからも手紙をくれる考えであることは杉井にとっては救いだった。

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幹部候補生を対象とした基礎教育は四月から六月までの三ヶ月で終了し、七月からは総合訓練に移った。砲手、馭者、観測手、通信手、分隊長、段列長という役割分担が毎日発表になり、各人が順番にそれぞれの役目を担当した。

演習場も郊外に移り、庄内川河川敷、東山、覚王山、千種ヶ原等で、名古屋特有の猛暑の中、重い通信具や観測具を背負って走り回る日々となった。

郊外への往復は広小路栄町の繁華街を通って行くのであるが、部隊の二百メートル先を二騎が先導し、「右に寄れ」と道を開けさせ、そこを大砲四門が通過していく。

この際の大砲の牽引音と馬の蹄の音の複合は喧騒そのものであり、また部隊という固まりが市中の道路の中央を疾走する様が市街地の風景と不調和であることがかえって異様な迫力を感じさせた。

杉井は、初めて実弾で射撃をした時と同様、毎日のように市街地を疾走する時も、戦線というものが徐々に自分に近づいてきているのを実感した。夜は、従来どおり、銃剣の手入れ、衣服の整理を行い、その後は談話室で全員一時間の自習となる。

杉井は、予備士官学校に進みたい一心で、砲兵操典、作戦要務令、軍務内務令を必死になって丸暗記した。学校を出て家業に入って以来、明確な目標というものを見出せなかった杉井にとって、節目節目にやってくるこの昇進試験は、極めて分かりやすい目標となっていた。

そして自己の目標を軍の方で用意してくれることが、種々疑問点も多い軍隊生活に左程の苦痛も感じさせない最大の要因となっていた。幹部候補生グループは、三月以前の有象無象の集団とは異なって、ある程度能力的レベルが揃っていることもあり、相互に話も合いやすく、杉井も親しい戦友が増えてきた。

同じ班から幹候になった石山、沢村のほか、静岡興津の中崎誠治、同じく磐田の梅木孝一、豊橋の鈴村一夫、岐阜の勝俣昭一らは年齢も近く、特に仲良しとなった。

梅木は杉井と同様、家業の家具屋を継いでいたが、中崎は電気会社、鈴村は市役所、勝俣は銀行に勤務しており、自分の家の従業員や製茶の同業者という狭い範囲の交際しかしてこなかった杉井には、組織の中でもまれている彼らは皆社会人として先輩に映った。

特に中崎は、早生まれであるために杉井と同年兵になったが、もともと杉井の静岡商業の一年先輩であり、実家は興津の中崎商店という茶問屋であるにもかかわらず、自らの意思で大企業に勤め、宮仕えも経験していて、杉井も教えられるところが多かった。

個々人の能力は訓練を通じてある程度レベルアップしてきたものの、連隊での生活は四月以降も三月以前と基本的に異なることはなかった。時間の管理は相変わらず厳しく、失敗が少なくなった分頻度は減ったものの体罰も横行していた。

また日頃の待遇改善の意味からも、更には予備士官学校へ進むために日頃の上官の評価を上げておく意味からも、上官の世話には、相変わらず全員細心の注意を払った。