第二の事件 本懐成就

十二月十四日討入り当日の朝、同志らは両国矢ノ倉米沢町(中央区東日本橋)の堀部弥兵衛宅を訪問するように指示されており、堀部弥兵衛宅を訪問することが討入りに参加する最後の意思表示であった。

仇討ち計画がこの日まで周辺に漏れずにきたのは、同志らが機密漏洩を徹底管理した結果であり、一部の同志は親族にそれとなく今生の別れの挨拶を交わしているが、ほとんどの同志はこの日まで同居の家族にさえも討入りの計画を報せていなかったと伝わっている。そして、この日同志らはそれぞれに泉岳寺の亡主の墓を詣でている。

堀部弥兵衛宅の二階では、今宵の討入りを事前に知らされていた弥兵衛の妻わからによって、戦さ時の験担ぎの料理として、勝負に勝つで「かち栗」、勝って喜ぶから「昆布」、戦さでの功で名を取るから「菜鳥の吸い物」などが供され酒宴が開かれている。昼過ぎには大石も弥兵衛宅を訪れ、居合わせた同志らを前に謡曲「小袖曽我」を謡っている。この「小袖曽我」は、曽我兄弟が苦節十八年を経て仇討ちを成就したことを題材にした中世から伝わる能の演目で、当時の武士にとって人前で能を披露するのも嗜みの一つであった。

今夜の討入りに参加の意思を表明した同志らは、集合の刻までそれぞれに分れて行動しており、最終集合場所として指定された三カ所の同志(堀部安兵衛、杉野十平次、前原伊助)宅に深夜になって集結している。因みに堀部安兵衛宅(墨田区立川)と杉野十平次宅は共に吉良邸から東へ約一粁に位置し、前原伊助宅(墨田区両国)は吉良邸裏門から直ぐの目と鼻の先のところにあった。

四十七士の一人寺坂吉右衛門が書き残した寺坂筆記に、「(吉田)忠左衛門殿、(同)澤右衛門殿、(原)惣右衛門殿、其他六、七人は両国橋向川岸町にて亀田屋と申す茶屋へ立ち寄り、そば切りなど申しつけ、ゆるゆると御休息致され候 八つ時(午前二時)前、堀部安兵衛宅へ参られ候。」との記述があることから、寺坂を含めた何人かは連れ立って蕎麦屋に立寄っているようであるが、その他にも堀部弥兵衛が討入り当夜にうどんを六、七十人分予約したとの逸話が早い時期から伝わっており、それらをヒントに映画やドラマでは、討入り当夜に同志らが蕎麦屋の二階に集結し、その場で討入り装束に着替えて店を出て行くシーンへと繋がっているが完全なる創作である。

堀部と杉野宅に集合した同志も深夜二時半頃に吉良邸近くの前原宅に入り、ここではじめて四十七名全員が一堂に会すことになる。実際には、この時点で堀部弥兵衛だけが合流していない。早朝から張り切り過ぎた弥兵衛は不覚にもつい寝過ごしてしまい、討入りが始まってから合流している。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。