上野介の在宅日さえ確認できれば、いつでも討入りできる状況が整った矢先の十二月五日未明に俄に討入りが計画されたが、直前にこの日将軍綱吉が側用人柳沢美濃守邸への御成りが急遽判明する。この事態により街中の警戒が厳しくなることから、やむなく日程を延期する。

すると、十日になって吉良家で年忘れの茶会が開催されるとの情報が複数の筋からもたらされ、やがて茶会出席予定者からもその裏付けが確認できたことから、愈々十四日深夜の討入りが決定する。

この日から討入り当日の十四日までの僅かの間に多くの同志が、親族や知人に宛てて遺書や暇乞状を書き送っている。大石は討入り前日の十二月十三日付けで、赤穂の花岳寺恵光和尚、正福寺良雪和尚、神護寺の三者に宛てて暇乞状を送っている。その文末に、良雪様へ、去年以来の御物語失念仕らず、日々に存じ出し、此度当然之覚悟に罷り成り、忝けなき次第に御座候との記述がある。

これには伏線があって、昨年三月赤穂に凶報が届くとその直後から、城下が混乱するお家大変の折、大石が一人で浅野家菩提寺花岳寺にある歴代城主の墓を詣でている。その際に花岳寺住職恵光和尚が大石を書院に通し、此の度の主家の不幸についてお慰みの言葉を述べられた。

大石は、「今度の大変については全く当惑仕りました」と恵光和尚に自身の苦しい胸の内を明かした。すると傍らで接待に当たっていた恵光和尚の高弟で御崎(赤穂市御崎)の正福寺住職良雪和尚が、「御家老殿ともあろう御方が、此の期に及んで当惑なされるとは何事でござるか」と叱責したので、その言葉に慌てた恵光和尚が御家老に対してあまりに失礼であると、良雪和尚を諫めようとしたところ、大石は気にも留めず、「何か良い考えでもござるか」と良雪和尚に尋ね返した。

予てより大石とは顔見知りの関係にあった良雪和尚は、「御家老殿は、死なずに済まそうとのお考えで御座るか、凡そ人間死を覚悟して事に臨めば、成就仕らぬものはござらぬ。昔から君辱められれば臣死すという言葉があるではござらぬか」と申すと、大石は静かに襟を正して、強く感にうたれた面持ちで、「良雪殿、誠に有難うござった。確かに君辱臣死(くんじょくしんし) の語は、某も良く存じている言葉でござったが、この時のための言葉であったとは気がつき申さなかった。お教えは、必ず感佩(かんぱい)仕るぞ」と出された茶を喫したあと、大石は喜んで寺をあとにしたとの逸話が花岳寺に伝わっている。

この時の大石良雄と良雪とのやりとりは、二人の名前に共通する良の字をとって「二良の会見」と呼ばれている。大石はこの時の「君辱臣死」の言葉を片時も忘れず、討入りの前日となる十二月十三日付けの良雪和尚宛の書簡に、わざわざ「去年以来の御物語失念仕らず」と認めている。実物の手紙が現在も赤穂の正福寺に保管されている。

この頃、討入りの趣旨を書き記した趣意書である『浅野内匠家来口上』通称『討入り口上書』が作成されている。

去年三月内匠儀、伝奏御馳走之儀付、吉良上野介殿江、含意趣罷在候処、於殿中当座難忍儀御座候歟及刃傷候。不辨時節場所働不調法至極付切腹被仰付、領地赤穂城被召上候儀、家来共迄畏入奉存候。

請上使御下知領地差上、家中早速離散仕候。右喧嘩之節、御同席御押留之御方在之、上野介殿討留不申。内匠末期残念之心底、家来共難忍仕合御座候。対高家御歴々、家来共挟鬱憤候段、憚奉存候得共、君父之讎不可共戴天之儀、難黙止、今日上野介宅江推参仕候。

偏継亡主之意趣之志迄に御座候。私共死後、若御見分之御方御座候者、奉願御披見、如是御座候。以上。

元禄十五年十二月  日    浅野内匠頭長矩家来 大石内蔵助他連名

今回の討入りの趣旨については、右の文の傍線にある「君父の讎(あだ)共に天を戴く可からざるの儀、黙止(もだ) し難く」と「偏(ひとえ)に亡主の意趣を継ぐの志迄に御座候」の文言からしても判るように、主人が果たし損ねた意趣を家臣である我等が果たしたまでのことである。と単純明快に示している。君父の讎の語句については、中国の礼記にある「父の讎は不倶戴天の敵」の父を君父に置き換えたものである。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。