アッペ①

リリリリーン。リリリリーン。

夜中の3時、けたたましい音が狭いワンルームの部屋に鳴り響く。病院から支給されている外線用の携帯電話だ。この音はびっくりして心臓に悪いので設定を変えようと思ったが、変更できないようになっていた。おそらくこの音が人を眠気から覚ますのにもっとも有効な音なのだろう。

「はい、山川です」

「山川君、これからアッペの患者が運び込まれるみたいなんだけど診る?」

先輩医師の田所先生だった。

今夜当直の田所先生は、面倒見のいい先生だ。

以前、「外科医はどれだけ手術を経験できるかが勝負だから、少しでも時間ができたら手術室に行って他人の手術を見ないといけないよ」

とアドバイスしてくれた先生で、僕のことを日頃から気にかけてくれている。

今日も「山川君は当番じゃないけど、何かいい症例がありそうだったら連絡するね」

と言ってくれていた。

「はい、今から準備してすぐに行きます」

「これから救急搬送されるみたいだから、もし間に合ったら最初から診てよ」

夜中の3時だったが、眠気は完全に吹き飛んでいた。

(よし、やるぞ)

いつもなら顔を洗う時は温かいお湯が出るまで待つのだが、待ちきれずに冷水で顔を洗った。冷たさは感じなかった。顔を拭って、歯磨きをして、コンタクトレンズをつけるとすぐに家を飛び出した。家を出てすぐ寝癖を直していないことに気づいたが、気にせずにそのままの状態で病院に向かった。手術キャップをかぶれば寝癖なんてどうせ分からない。

病院に着くと、救急外来に向かった。

「夜遅くにご苦労様です」

看護師さんが声をかけてくれる。

「ご苦労様です。アッペの患者さんはまだですか」

僕は挨拶し、患者さんのことを尋ねる。

「あと5分くらいで着くそうです。お願いします」

あと5分。間に合った。田所先生のPHSに連絡を入れた。

「お疲れ様です。アッペの患者さんですが、あと5分ほどで来られるそうです。間に合ったので初期対応からさせていただきたいと思います」

「おお、早かったね。じゃあお願いね。医局にいるから何かあったらまた連絡ちょうだい」

予定の手術をさせてもらうことはあっても、緊急の手術はなかなかさせてもらえない。緊急の場合、1分1秒を争うこともあるため、最初から僕のような専攻医には回ってこないのだ。これは千載一遇のチャンスだ。

事前情報を確認する。40代の女性で名前は森本裕美さん。主訴は右下腹部痛。昨日から症状があり、数時間前から痛みが強くなった。吐き気も出てきたため、救急要請された。若い女性のアッペ。昨日からの症状ということは、発症したてでそれほど強い炎症はないかもしれない。

これなら僕にもできるかもしれない。

ちなみに、アッペとは虫垂のことで、大腸の入り口にあり、ヒトのお腹の右下に位置する臓器だ。便などが詰まりやすく、虫垂炎という炎症性疾患をきたしやすい。紛らわしいのだが、虫垂炎は一般的に「盲腸」と呼ばれ、発症率の高い疾患である。虫垂は英語で「appendix」というため、医療界では「アッペ」と呼ばれている。

ピーポーピーポーピーポーピーポー。

救急車の音が近づいてきた。

「救急車入ります」

救急隊が威勢のいい声を発する。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『孤独な子ドクター』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。